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2024年9月10日 (火)

1290.宮崎・熊本遠征の中止(再延期)、‘勝ち切る覚悟’

9/9前泊9/10~12の宮崎・熊本遠征を中止としました。理由は、本人が帯状疱疹に罹患してしまったからです。

本当に情けないお話しですが、二度目の帯状疱疹の罹患です。一度目は腎臓移植後7年経過のころで、自分自身絶好調と思っていた時でしたので、その時は大変がっかりしたものです。

今回は、先週の月曜日に右胸に少々の違和感があり、その後しばらくたって前腹の赤いブツブツを見つけ発見したものです。すぐに町医者にかかり塗り薬と飲み薬を処方していただき、金曜日から飲み始めて4日が経過したところです。

赤いブツブツは前腹から右回りに背中まで達しており、自分としては特に痛くはないものの、これ以上大きくならないで縮小していってもらわなければならないのですが、金曜日に飲み薬を始めてから次第に縮小していく方向になってきました。あと2日ぐらいで収まってしまうのかと思っています。

さて、宮崎・熊本遠征の中止にあたっては、宿泊キャンセルについては3日間ともにキャンセル料はかかりませんでしたが、レンタカー代では基本料金の20%となる3,320円をしっかり取られました。JRの払い戻しも取消手数料として4,040円かかっております。手痛い出費はこの2件でした。

Photo_20240909132701 今年のテーマ地域が宮崎と北海道としていますので、今回の宮崎・熊本遠征に当たる地域についてはどうしても今年のうちに回って行く必要があり、10月は道南大遠征と奄美大島大遠征の2大イベントが控えており、そうなると11月か12月に宮崎・熊本遠征を回すことになろうかと思っております。

次にベイスターズネタであります。

先週まで台風接近に伴う4試合の順延を挟んで6連勝中でしたが、土曜日の讀賣戦で手痛い1敗を喫してしまい、大型連勝がストップしてしまいました。その試合は2-1と1点リードの9回裏2死後、ストッパーの森原がサード柴田の一塁悪送球で走者を残したところから同点とされ、延長12回裏にも2死までこぎつけて、佐々木があと一人打ち取れば負けはないところをオコエにサヨナラホームランを打たれてしまって敗戦したものです。ですが、翌日の日曜日には8-0の大勝となり、前日の敗戦の痛手は払拭されました。

今回の6連勝の最初の頃、チーム終盤のスローガンとして‘勝ち切る覚悟’を押し出しています。今は、このスローガン通り‘勝ち切る覚悟’を持って残り22試合を戦い抜いてもらいたいものです。現在4位の位置ながら、最後にはどの順位で決着するのかファンは見守っております。

2024年9月 6日 (金)

1289.ポスト型はがきの収集状況

本日は、少し前の記事で触れた‘ポスト型はがき’について、その収集状況をまとめてみました。

NO.1286の最後に触れたとおりで、新規の払い出しは無く、各局の在庫限りでの販売終了となるようです。

この‘ポスト型はがき’については、NO.562にて「ポスト型はがきの整理」として記事にしており、これを集め出した理由については、NO.58の記事にて、奈良県の完訪の記念として最終局の五條二見局のポスト型はがきを所望したことを発端とすることも記載してあります。

Photo_20240904084501 そしてクリアファイルに順番に並べて保管し始めたことなどを記事にしております。あれから7年が経過しましたが、いつの間にかポスト型はがきの収集物がたくさんになっていました。

7年前の記事ではクリアファイル4冊ほどになったとしていましたが、今回確認してみると20冊になっていて、20冊のクリアファイルを収める大きな収納ケースまで必要になっていました。

7年前の記事では、府県完訪・旧国完訪・新規設置・移転改称・廃止さらには節目・離島・観光地などとジャンル分けをして、追加記事(NO.563NO.564)まで書き込んでましたが、今回は、ジャンル分けの統計は取ってないため、それはお披露目できません。代わりにエクセル管理をしており、その際の区分を少し示してみることにいたします。

 ◎ポスト型はがきのみ:416枚

 ◎風景印押印とポスト型はがき:東日本 285枚、西日本 301枚

 〔◎風景印押印のみ:84枚〕

 ◎浜松市内:11枚

 ◎その他静岡県内:6枚

 ◎24.9.1現在合計:1,019枚

‘ポスト型はがき’を購入する際の考え方として、上記のようなジャンルによる収集も兼ねてはいるのですが、基本的には、風景印押印の手数料的な意味合いで、購入するようにしています。すなわち、主に持ち込みハガキに押印してもらうのですが、仕事とはいえ各局の局員さんに綺麗に押してもらう見返りの手数料として、たった189円ながら局の売り上げに貢献するという趣旨のものです。

もともと私・稲生は、風景印押印には手数料をとるべきという主張をかねてからしているものですが、手数料のかからない現状では、ささやかながら局の売り上げに貢献しておこうという意味合いを持っていました。ですから、今後‘ポスト型はがき’の購入が出来なくなると、その局にはどうやって還元したら良いのか、現在は思案中といったところです。

2024年9月 2日 (月)

1288.宮崎・熊本遠征を延期しました!

8/28に鹿児島県薩摩川内市付近に上陸した台風10号は、熊本・大分と九州を横断し、瀬戸内から四国に進み太平洋に出たあとは、熱帯低気圧となり三重・岐阜・富山と進み日本海側に北上していきました。28日の鹿児島上陸から9月2日まで、実に1週間の間ノロノロと進んだために、九州から東海・北陸さらには関東・北海道まで、いたるところに被害をもたらしました。

当地・遠州浜松では、まだ奄美大島近海にいた8/27夜半頃から、警戒レベル4の大雨警報・洪水警報が頻発しており、近くで落雷による被害があったり、東海道新幹線・在来線は静岡県区間で運休が続いたり、新東名高速・東名高速も県内の区間で通行止めとなったりと、東西の人流や物流がマヒした状態になっていました。台風本体が最接近した9/1頃はそれほどでもなかったのですが、前振りの大雨がひどく続き、随分長いこと雨模様の日々が続きました。

Photo_20240901145301 前の記事で、宮崎・熊本遠征の意気込みを語っていたのですが、宮崎・熊本の九州山地あたりも台風の影響を受けていることが推測され、なにより8/29には九州7県の郵便局窓口がすべて閉鎖されるという想定以上の対応がなされ、8/30も訪問予定の局も閉鎖のままのところも多く、ここはいったん立ち止まってみようということで、8/30のうちに延期の方針を決め、1週間ずらすということで、宿泊先の取り直し、レンタカーの予定日変更、JR切符の取り直しなどをしたのでした。

細かなことを言うと、前泊のアパホテルで400円アップとなったり、初日の宿泊先は5,000円でお釣りの来るホテルでしたが、1週間後は満室で確保できず、阿蘇のビジネスホテルに変更して倍の値段となったり、レンタカーも早割45をキャンセルして取り直したために4,000円ほど高くなったりと、マイナス要素がありましたが、これはやむを得ません。

台風の爪痕が残ってしまって迂回を要したり、はたまた肝心の郵便局の被害により、閉鎖したままとなっていたりと、まだまだ不確定要素が多いのですが、とりあえず9月第二週の郵便局まわりを楽しんで来たいと思っております。

幸いにも、出発まではあと1週間ありますので、出来る範囲で情報収集をしてから、本番に臨んでみたいと思います。

※写真は、新幹線運休中の浜松駅新幹線改札。(8.31撮影)

2024年8月29日 (木)

1287.宮崎・熊本遠征の概要

台風10号が太平洋上を北西にスライスしており、九州地方経由で日本列島を縦断する見込みとなってきました。当初は高知県や紀伊半島辺りが予報中心円であったのが、どんどん北西にスライスしていったようです。(29日7時現在)

東海地方に住んでいる筆者・稲生にとって、地元への直撃が無い事はありがたいのですが、宮崎県北部・熊本県東部の九州山地を含んで訪問予定の宮崎・熊本遠征を控えている身としては、台風による通行止め等が発生するかもしれないことをとても懸念しております。

これは台風とは関係ないのですが、すでに上鹿川簡易局や八戸局の近くに通行止め区間があり、迂回路の確認などで電話を入れてみるつもりだったのですが、これは台風通過後の30日(金)午後に入れてみることにしました。

前置きが長くなってしまいましたが、今回の宮崎・熊本遠征の概要を示してみようと思います。(訪問予定は こちら

Photo_20240828081601 延岡でレンタカーを借りて3日間を廻って行くため、延岡市内に前泊いたします。これは2年半前の4/20から22の局メグ時と同様です。あの時は、二日目に思わぬパンクというアクシデントがありました。今回は、何事もないのが一番なのですが、悪い事は一度だけとは限りません。慎重にそして無理をしない事を胸に刻んで久しぶりの局メグを楽しむことにいたします。

前日の9/2(月)の夕方までに到着すれば良いため、自宅を10時頃出発して延岡駅には18時過ぎに到着するのんびり旅です。前泊地は駅前のアパホテルをとりました。実はアパホテルを利用するのは初めてです。すなわち今回がアパデビューとなります。

そして9/3(火)が初日となります。レンタカーを受け取った後に延岡西部・北方・日之影・高千穂・五ヶ瀬・蘇陽と17局+2局程度を見込んでいます。

前述の上鹿川簡易局は険道214号で綱の瀬川を15㌔近く上っていったところにあり、事前の調べでは時間規制が1箇所、通行止め(たぶん迂回路あり)が1箇所判っており、これに台風10号の影響も考えられるため30日の直電により、状況把握してからどうするか決めることにしました。もしかしたら、1局が残ってしまうことになるかもしれません。

二日目(9/4)は、阿蘇・長陽・久木野・高森を経て高千穂北部で終了です。22局-2局となることでしょう。これにより阿蘇地方と西臼杵郡は完訪となります。

最終日は、西郷・北郷・日向中部・門川・延岡南部を廻ります。22局のみです。このコースでは、今回の訪問までに計4局の一時閉鎖局が発生してしまい、少なくなってしまいました。これらが復活すれば‘落ち穂拾い’での再訪問が必要になるため、あまり面白くない状況ではあります。

以上が概要でありますが、これらが予定通りに進めば宮崎県39局、熊本県20局の計59局であり、宮崎県の仮完訪となっていきます。

※写真は、高千穂峡。ここへ行くことは無いと思います。

2024年8月25日 (日)

1286.我が家のごみ処分作業、郵便局めぐりの再開準備

NO.1275家庭の事情って何?の続報です。

我が家の工場部分の解体工事が始まりました。

といっても、8/20から工事開始となったのですが、今のところ足場を組んだり、電気や水道の系統を断線・断水しただけで、本格的な解体作業には着手していません。これから約1ヶ月かけて解体作業が進んでいくことになります。

私にとって忙しかったのは、工場部分にあった様々な物を処分したり、場合によっては残る住居(旧宅)に移動したりとする作業でした。これが8/19をもって、何とか終了したのです。

私と妻が主となり、息子や娘さらには妻の妹夫婦も巻き込んで、相当な労力を費やして、一応の終わりをみたのです。

市の清掃センターに自己搬入ということで、連絡ごみ・可燃ごみ・不燃ごみなどを度々運びました。その回数は、30回以上に及びました。清掃センターで扱ってくれない事業用の廃棄物たとえば事務机などや金属製のもので金目になるものは、民間業者の無料回収を利用しました。その他、リサイクルとして使えそうな品物たとえば火鉢・食器セット・瀬戸物などは妻の妹の担当として、リサイクルショップに持っていってもらいました。

Photo_20240823134501 96歳の父親と今月90歳になる母親は、杖を突いてようやく歩くことができるほどですので、全く戦力になりません。それどころか「これは取っておきたい。これもまだ使うかもしれない。」などと、我々処分をスピーディーにしたい夫婦にとっては、全くの抵抗勢力でありました。

最後は、やっつけ仕事で旧宅に移動しただけの物も多々ありますので、今後はこれを整理して片付けていく仕事が残っております。そして8/19までに処分を終えるというスケジュールは、暑さとの戦いでもあり、このようなスケジュールにした息子を恨んだものです。

次に、趣味の郵便局めぐりに関する話題です。

このことは現在、開店休業状態となっておりますが、上記の作業が一応の終わりを見たので、次の郵便局めぐりすなわち9/2に前泊とする宮崎・熊本遠征の準備に取り掛かることになります。

宿泊手配・レンタカー手配・JRの乗車券手配は全て完了しており、残るは局メグ日程の最終調整に入って行きます。

移転改称や一時閉鎖を追っかけるメンテナンス作業は、逐次行っておりましたが、それほど大きな案件はなかったです。しいて言えば山口県の長門大泊簡易局が、これまで扱っていなかった貯金業務も取扱開始をして9.2に再開することぐらいかと思います。(私の訪問を待つ‘落ち穂’たちは こちら

最後に、ポスト型はがきについてです。このほど各局にある在庫限りでの販売終了となったそうです。この話題は、もう少し膨らませそうですので、次回の記事で展開していくことにいたします。(訂正:×次回の記事で、○後日)

※写真は、解体前の我が家。

2024年8月21日 (水)

1285.実録・帯状疱疹、‘走馬灯’と‘お花畑’

まだまだ病気の話ですいません。得意の郵便局めぐりが休止中のため、それらに関する話題が特段ないため、もう少しお付き合い願います。

前回、インフルエンザで入院治療した話をしましたが、よく思い出したところ、帯状疱疹でも入院していました。確か腎臓移植をして7年くらいたったころでした。まだ40歳になる前だったと記憶しています。

腎臓移植後は、時間を経るにしたがって警戒を緩めてきました。最初の頃は電車通勤の際にマスクを着用して流行性感冒に気を付けていましたが、1年経過した頃にマスク着用を解除したり、2.3年すると仕事終わりの麻雀も復活して、日付の変わってから帰宅したりと、十分に普通の生活ができていました。

そんな矢先に帯状疱疹にかかってしまったのです。1週間ほどの入院治療で治癒に至ったのですが、その時の心情はとっても残念で落ち込んだものでした。高齢者などに多く罹る帯状疱疹となってしまい、やっぱり俺は病人なんだと。その後は、無理は禁物というワードを手にして、通常の生活を刻むように心掛けたものです。

ですので、それ以降はインフルエンザも帯状疱疹にも罹患しておりません。でも今は高齢者となり、前述のものに加え新型コロナなど、それらにかかれば回復はかなり遅れるということを肝に銘じて行動をすることにしています。

次に、‘走馬灯’と‘お花畑’についてです。この二つとも私は経験しているのです。

腎臓に関する最初の手術を29歳の頃にした(NO.1282参照)のですが、この時に‘走馬灯’をみたのです。幼き頃から小学校・中学校・高校・大学そして社会人・結婚・家族と、それぞれが動画で出現し、次々とスライドショーとなって進んで行きました。

手術が終わって覚醒したときに、これが‘走馬灯’というものなんだなと、感心したものです。

でも、不思議なものですが、次の大きな手術・腎臓移植手術や50代の2度にわたる人工股関節手術では、‘走馬灯’は出現しませんでした。命に係わる危機だと身体が認識しなかったからなのでしょうか?

最後に‘お花畑’についてです。これは腎臓移植後3年ほど経過した日に経験しました。

妻と小学校低学年の長男・幼稚園の長女の4人で、休日に静岡方面の旅行をしたのですが、私の母校・静岡大学を見せて上げたいと大学に向かい、一番大きなB301教室を見学した頃から、私は下痢気味となり、トイレで用を足したのちに、芝生に突っ伏して気を失ったようです。

この時の私の脳内は綺麗な‘お花畑’が展開していて、ずっとこうしていたいと思ったのですが、遠くから妻が「パパ起きて!パパしっかりして!」との声が聞こえて来て、我に返ったのです。

私の身体に危機が迫っていたのかもしれませんが、私の脳内では、とっても気持ちの良い時間であったのです。妻が近くにいたから、この世に引き戻してくれたのかもしれません。

その後は、皆さんご存知のように、単独行動を主として日本全国を回っておりますが、気を失ったことはなく過ごしております。

 

2024年8月17日 (土)

1284.実録・腎臓移植・part2

私が腎臓移植を受けてから、この11月で35年が経過することになります。

33歳までが自前のポンコツ腎臓でしたが、その後は実母の腎臓を使ってそれ以上の年月を過ごして来たことになります。満33年が経過した一昨年の11.15には、感慨深いものが人知れずこみあげてきたものです。

大正14年生まれの腎臓で、平成・令和の世を生き抜いてきたのです。まずは今年99歳となった実母に、丈夫な腎臓をいただいたことに感謝いたします。そして、未だに週5回でカーブスに通って健康に暮らしている実母には、もっと長生きをして欲しいものと切望しています。

ところで私の血液型はA型です。そしてドナーの実母はO型です。これは、確信を持って言えることですが、腎臓を貰ってからは私の性格が変わりました。元来のくよくよとした神経質な性格は無くなり、ある意味大雑把な性格になっているのです。これは腎臓移植によるものであることに間違いはありません。

ちょっと戻って、免疫抑制剤の服用について、お話ししてみます。

腎臓移植手術によって、私の体内に収まった母親の腎臓なのですが、人体には自分のものではない物を‘異物’として排除すべく攻撃する免疫作用があります。たとえ肉親の腎臓であっても自分のものではないので‘異物’です。一卵性の双子からの移植以外は、残念ながら‘異物’として免疫攻撃が実行されてしまうのです。

そのため免疫抑制剤を服用するのです。移植直後では、色んな種類の免疫抑制剤を服用して、貰った大切な腎臓を守ります。その後は、次第に少なくなっていくのですが、これは貰った腎臓が自分の身体の中で生着したということかと思います。植物の接ぎ木と同様なのかと考えています。

ですから移植直後は免疫抑制剤の副作用が色々と出てきました。まずはムーンフェイスです。顔が満月のように丸くなるのです。そして私の場合は、もち肌だった皮膚に吹き出物がたくさん出てきました。今はその吹き出物の痕跡で顔中ブツブツのブサメンとなっています。でも、これは、クオリティオブライフの代償であるので、まあ仕方のないことです。幸いにも既婚者ですので、顔はついていれば良しとしましょう。

あとは、免疫抑制剤を服用しているため、インフルエンザとか新型コロナなどに罹患すると、回復が遅くなります。ですから、他所様以上にかからないように気を使います。幸いにも新型コロナには未だ罹患したことがありませんが、インフルエンザには1度かかったことがあります。

娘が中学生の時ですから25年ぐらい前のことです。娘からの貰い物でした。娘は一日休んだだけで回復しましたが、私は1週間入院しました。点滴による治療で時間をかけて治していったのです。

このように、打たれ弱いということを実感しておりますが、その後25年は股関節治療以外は入院しておりませんので、普段は健常者並みに丈夫であると自らを誤解して過ごしております。

 

2024年8月13日 (火)

1283.実録・腎臓移植・part1

前の記事の続きです。

慢性腎炎から慢性腎不全に至った私が生き残っていくためには、透析治療しかありません。基本的に透析治療に入れば、週3回、一回に4時間かけて汚れた血液を濾過して、それを身体に戻すという透析治療を繰り返して生きながらえることになります。

腎臓病の状態を測る指標として、血中のクレアチニンの値があります。正常値は男性が0.6~1.2、女性が0.4~1.0(mg/dl)ですが、腎臓が悪いとその値がどんどん大きくなっていきます。このクレアチニン値とは、分かり易く言えば血液中のゴミの量を測っているものです。

この血中クレアチニン値が8となれば、尿毒症であり、放置すれば死を待つのみですが、その前の7ぐらいになっていくと生きながらえるための透析治療を行ないます。7ぐらいの値で透析治療を済ますと5ぐらいになるようです。

透析治療というのは、24時間365日やっていれば正常値の1.2に限りなく近づくのでしょうが、これでは常に管に繋がれているばかりですので、週3回一回4時間の透析治療をして、それ以外の時間はシャバに出て活動することができるというもので、患者本人のクオリティオブライフを高めるのですが、その実態は苦しいながらも何とか細々と生活ができるというものです。

この透析治療の上を行くのが腎臓移植です。私の場合は、これを強く望みました。そうは言っても、腎臓の提供者(ドナー)が必要なので、そう簡単に腎臓移植が出来るものではありません。

私のドナーは実母です。33歳直前で移植手術をしたのですが、その時の実母の年齢は65歳でした。私は今67歳なのですが、今の年齢になって考えると、実母はよく提供してくれたものだと頭が下がる思いです。

当時の私は妻と二人の幼子がいました。我が子を無事に成人させるためには、この起死回生とも言われる腎臓移植をするしかないと、病身ながら腎臓移植について勉強をしていました。本を読んで勉強するのは勿論、腎臓移植者の集いにも参加して、その方々の意見を聞いてみたりしました。

その結果、透析治療を始めて4ヶ月後に腎臓移植手術をしたのです。1989(平成元年)11.15でした。二週間後が満33歳の誕生日でした。

これにより私のクレアチニン値は1.4に改善しました。34年経った今でも1.4から1.6ぐらいです。正常値の男性下限1.2よりも若干劣るだけの値です。

腎臓移植をすれば手放しで健常者となるわけではありません。貰った腎臓をダメにしないために、免疫抑制剤などをサボらずに飲み続ける必要があるし、その免疫抑制剤などの副作用にも対処しなくてはならないなど、未だに腎臓病患者であることは間違いないのですが、郵便局めぐりのために何泊もして趣味に励むなど、クオリティオブライフは格段に上がっていることも間違いのないことであります。

2024年8月 9日 (金)

1282.実録・慢性腎臓病

主要テーマである郵便局めぐりは家庭の事情もあり、9月までありません。そこで実録シリーズとして、自分の病気のことを晒すことにいたします。

今回は結構シビアであり、かつ赤裸々な告白です。

50代になってから顕在化した変形性股関節症については、NO.1273NO.1274で告白しておりますが、私・稲生はもっと本質的な疾患を持っているのです。

それは腎臓病です。おそらく中学生の時に急性腎臓病になっていたようです。扁桃腺を腫らしては熱を出しておりました。これについて、休んで睡眠をとれば回復することを繰り返していたのですが、しっかりとした治療を受けずにいたのが間違いの元だったようです。

高校に入ってからは慢性化してしまい慢性腎臓病となっておりました。でも、専門病院に行くことは無く、近所の町医者で薬を処方されて、それを飲んで良しにしていました。相変わらず、扁桃腺を腫らし熱を出してぐったりすることを繰り返していましたが、休むのは一日か二日で長患いにはならなかったので、それを甘く見ていたのです。

大学入試を何とか現役で受かって、学生生活を送ったのですが、ここでも扁桃腺を腫らして熱を出してぐったりすることを繰り返しておりましたが、病気持ちながら若さが優先して、それなりに楽しい学生生活を送っておりました。

今ならまず不採用となることでしょうが、慢性腎炎を申告したうえで地元の鉄道会社に就職できましたが、病気の方は相変わらずで慢性腎臓病は次第に進行していき慢性腎炎から慢性腎不全となっていきました。

28歳ぐらいの時でしたでしょうか、突然血尿が出てしまい、本格的な病院にかかることになりました。地元の浜松医科大学付属病院(正式名称:浜松医科大学医学部附属病院、通称:医大病院)を受診しました。これが、私と医大病院の長い付き合いの‘はじめの一歩’でありました。

腎臓内科にかかり、しばらく通院治療をしていましたが、そのうちに腎臓内に腫瘍のようなものがあるようだが、外科的手術をして‘もの’をとってみないと悪性か良性か判らないとなり、泌尿器科に転科して手術をしました。幼少期に、股関節脱臼による手術もあったのですが、これは本人の記憶にない中での手術でしたので、大人になってからは初の手術でありました。

たしか29歳の時でした。6時間に及ぶ長い手術でしたが、結果は良性の嚢胞(シスト)であったということで、その部分を削っただけで終わった手術でした。

その後は、経過観察ということで推移しておりましたが、慢性腎炎そして慢性腎不全は、ここで留まってくれる病気ではありません。病気は進行してどんどん悪化していきました。頭痛となるのは毎度のことで、扁桃腺は腫れるは、熱は出るは、で明らかに病気と闘っている状態になりました。

33歳で起死回生の手術をするのですが、これ以降現在に至るまでのお話しは、次のエントリーで展開していくことにいたします。

 

2024年8月 5日 (月)

1281.東京東大和‘落ち穂拾い’と東京01埼玉03‘マルチ捕り’と ゆうちょラリー2024懇親会

8/2(金)は、表記の目的のために上京しました。

ゆうちょラリー表彰式&懇親会は、毎年このような熱中症警戒アラートの出るほどの危険な時期に開催されており、参加する側も日中の活動を控え目にするなどの工夫が必要となっております。

と、その前に。パリ・オリンピックにおいて日本の代表選手たちが、連日のメダル獲得に沸き立っている陰で、9連敗を喫していた我がベイスターズが、8/3にようやく勝利し泥沼から脱しました。

6月の道東大遠征のころに7連勝をしてルンルンしていましたが、今回は約半月の間、ひっそり日々を過ごしていました。これでようやく、通常の生活が出来そうな気がしています。

Photo_20240804092901 さて当日は、浜松駅10:17発の新幹線ひかりにて東京駅経由で国分寺駅乗り換えで、西武小川駅には13:10に到着しました。国分寺駅ホームで立ち食いソバを食しております。

1局目が6/3に移転改称した東大和リビングテラス局でしたが、小川駅から2.2㌔のみちのりを休み休み45分かけて到達いたしました(14:00頃)。その後は、東大和市駅に進む途中で2局目として、東大和新堀局にて‘01’マルチを取得しておきました(14:30頃)。

東大和市駅からは小平駅乗り換えで所沢駅に進み、埼玉県の‘03’マルチを捕るため所沢駅東口局には15:50に無事到着しました。

これで本日のメニューは終了し、所沢駅のコメダでかき氷を食してクールダウンをしたのち、西武池袋線・東京メトロ有楽町線直通で約1時間乗車して新富町下車後、表彰式&懇親会会場に向かいました。

表彰式&懇親会では、昨年に続いて計9回目の参加ということで、同じ趣味をもつ仲間同志で大いに盛り上がりました。今回は、静岡市の大御所さんより在庫一掃セールのごとく、趣味の郵便局グッズや鉄道グッズの提供品があり、約30名強の参加者は、皆それぞれに記念の品をいただくことができました。

こちらのブログ『稲生のつぶやき(ブログ)』も、これまで懇親会などで特に宣伝したことはありませんでしたが、ご覧になっていただいている方が多いようで、ちょっと今後は心して綴っていかなければいかないのかな?と考えを新たにしたところです。

そして解散後は、それぞれの単独行動による趣味の郵便局めぐりがそれぞれ再開されることになっていきます。

※写真は、東大和リビングテラス郵便局。これにて東京多摩地区完訪復帰です。

2024年8月 1日 (木)

1280.最近の小ネタ(東海汽船のジェット船漂流・聖隷クリストファー準優勝・トンネル内での運転)

今回は、最近の小ネタです。

まずは東海汽船のジェットフォイル‘セブンアイランド愛’が自力航行不能となってしまい、海上保安部の巡視船や民間のタグボートがえい航を続け、出航からほぼ一日経過した翌朝の5時半過ぎに伊豆大島の岡田港に到着したというもの。(参考記事は こちら

私・稲生は昨年8.4に利島から神津島に向かうのに、このジェットフォイルを利用しています。ブログNO.1184にその時のジェットフォイル‘セブンアイランド愛’の写真が載っていますが、どうも今回事故のあった船で間違いないようです。事故の1年前に該当船に乗っていたのです。

にわかに恐ろしい話ですが、この船に乗っていた乗客116人と乗員5人にケガはないものの、あちこちで船酔いによる嘔吐が続いていたということです。これは修羅場ですね。特に自力走行が出来なくなってからの19時間は、とても長くつらかったことでしょう。

Photo_20240728104501 検証はこれからとなりますが、房総半島沖20㌔の沖合となっており、風も西から東に吹いており、房総半島のどこかの港に到着させる手はなかったのかと、素人ながら考えております。重傷者や死者が出ていたら、すぐにでも問題視されることでしょう。

この事故の話は小ネタで語るには少なすぎますが、とりあえず次に進みます。

次に高校野球静岡県予選の決勝戦が7.29に行われ、掛川西高校が聖隷クリストファー高校に勝利し、甲子園出場を決めました。掛川西高は26年ぶりの6度目の出場となります。おめでとうございます。

対する聖隷クリストファーは問題の高校です。残念ながら念願の甲子園初出場は叶いませんでした。

何が問題なのか?ブログNO.1034に詳しく掘り下げていますが、コロナ禍で開催が見送られた2020年に優勝していて、さらに22年の春の選抜大会でも東海大会で準優勝をしたにも関わらず出場を逃した気の毒な高校なのです。

聖隷クリストファー高校野球部の皆さん、確実に甲子園は近づいております。来年がありますので捲土重来を期すべく奮闘努力を続けてください。地元の野球ファンとして陰ながら応援しております。

最後に、脱力感のある小ネタを一つ。皆さんはマイカーで長いトンネルを通過するとき、どうしていますか?CDを聞いていたりカーラジオを聞いている方は問題はないです。同乗者がいて一人でない時も、会話をしていけばすぐに通過してしまいますので問題ないです。

カーラジオでもトンネルでは聞こえなくなることも多々ありますよね。そんなときに私がやるのが、声を出して秒を刻むということです。一人のときに限りますが。

「1.2.3.4・・・」と声を出して秒を刻むのです。もしこれだけで退屈ならば「3と3の倍数の時にアホになる」というお笑い芸人・世界のナベアツがやっていたネタのように、変な声を出してみても良いでしょう。これは退屈しのぎになることでしょう。

かっては、対向車のあるトンネルでは、無灯火の対向車の数を数えていました。「アホ1、アホ2、アホ3・・・」と。これは対向車が多いときに有効ですが、必ずアホは居るものです。これも退屈しのぎに持ってこいの遊びでした。

 

 

2024年7月28日 (日)

1279.東海道新幹線60周年、富士山静岡空港開港15周年

まずは、東海道新幹線が本年10.1にて満60年となります。

東海道新幹線の思い出については、50周年の時にブログNO.289に記事にしてあります。ですので、今回はパスをしておきます。

次に、富士山静岡空港が本年6.4に15周年を迎えました。関連して、航空会社のFDA(フジドリームエアラインズ)も7.23に15周年となりました。

富士山静岡空港については、東京国際空港(羽田)と中部国際空港(セントレア)に挟まれた静岡県民にとって、要らないのではないかな?と、私・稲生は開港前から疑問に思っていました。中途半端な空港は、運航本数も少ししか確保できないため、その利用者の確保に苦労するのではないのか?と。

Fda_20240725155501 外国人客によるインバウンド需要は確かにあるものの、それでも採算が取れないとなると、その赤字の穴埋めは県民の血税になるため、そのような空港は要らないのではないかと。

そうは言っても、開港して幾ばくかの飛行コースが就航している以上、それを利用するのは別問題です。使えるものは使っておくに限ります。

私の富士山静岡空港デビューは7年前のことです。人生初の鹿児島県入りをする(NO.596)のに富士山静岡空港の往復を使いました。しかも、空港ターミナル入口で地元民放テレビ局にインタビューを受けてしまいました。(NO.598)これは人生初のテレビ出演でした。

その後、2019年には北九州への往復、2020年には福岡への往復と鹿児島への往復、2021年には熊本往復と鹿児島往復、2022年には福岡往復、新千歳・丘珠の往復と鹿児島往復、2023年には鹿児島往復、今年は宮古島の往復とコンスタントに利用を重ねてきました。

新型コロナの時期には、セントレアへの空港バスが休止中で、富士山静岡空港の方を使っていくしかない状況でもあり、また出発中止などもありましたが、その時々で利用できる便については、使っていくという姿勢は持っております。

空港へはマイカーで行きますが、無料の駐車場があるのはありがたいことです。ですが、少し前から空港正面の大半は有料化してしまい、無料の駐車場は、奥に追いやられております。この流れで言うと、全て有料化するのも時間の問題ではないかと思います。

最後にFDAについてです。富士山静岡空港の開港に合わせて設立された地元静岡の商社・鈴与が経営する航空会社ですが、静岡空港だけでなく名古屋空港(小牧)や神戸空港の3つの空港を拠点として、予想以上に幅広く営業網を広げており、奮闘努力をしているのが良く判ります。

私が好きなポイントとしては、他社にはないほどの機体の色がカラフルなところです。

 

2024年7月24日 (水)

1278.福井・兵庫‘落ち穂拾い’&京都‘マルチ捕り’局メグのご報告-後半-

前の記事の続きです。

3局目とした峰山二箇局から45分ほどで4局目の豊岡高屋局に到着しました(13:20頃)。この局への訪問も峰山二箇局と同じ日に訪問しておりますが、ここはおぼろげながら記憶があります。

兵庫県の‘42’マルチの取得のための立ち寄りでしたが、これから廻る2局は‘43’マルチであったため、豊岡市内で‘42’マルチを探したところ、この局がヒットしたために再訪したものです。兵庫県は主流が‘43’マルチで‘42’マルチが傍流ではあるものの、千葉県の傍流の‘10’マルチ(現在は10局のみ)東京都の‘13’マルチ(2局のみ)と比べると、そんなに希少種ではありません。

5局目として豊岡八条簡易局にはすぐに着きました。テナントの一部にあり隣のテナントは焼き鳥屋さんでした。両者の駐車場の境目には黄色い線が引いてあり、さらにはコンクリートブロックも2ケ設置してあり、両者では駐車場に関する問題がありそうな予想がつきました。

Photo_20240721155401 ここは以前はJA委託で貯金不可であったのを、これが閉鎖後4.18に再開する際に貯金業務も開始した簡易局で、大方のメグラーたちは‘落ち穂拾い’として訪問の対象となるべき簡易局です。ここでは、「‘郵頼’はいかん自分の足で訪問すべし」という私の持論の話題となり、おおいに同意を得ることとなりました。

このあとコンビニ休憩を挟み、北近畿自動車道と舞鶴若狭自動車道などで1時間40分かかって6局目のラストの局として、丹波篠山東吹局には15:20頃に到着しました。6.24に篠山乾新町局が移転改称した局です。

篠山市は平成の大合併により多紀郡の4町が合併してできた市ですが、同じく平成期に氷上郡の6町が丹波市と名乗ってしまい、本家‘丹波’はこっちの方だとの強い声を受けて、篠山市誕生後20年を経過した19.5.1に丹波篠山市に改称しております。全国的にも珍しい事例です。

今回移転改称した局には新しい市名の‘丹波篠山’が冠してあり、丹波篠山名義の第1号の局であります。そして、これにて兵庫県の6回目の完訪であります。

この局を辞して駐車場で写真を撮っていると、局内で私の次に窓口にいた中年の女性が出て来て、私に声掛けしてきました。なんと同業者であったのです。駐車場内で、しばしの局メグ話が弾んだことは言うまでもありません。

これにて、この日の全てのメニューを無事に消化しました。その後のトピックスを一つだけ。

出発前日に満タン給油したガソリンも自宅までは持つはずはなく、この地で給油することにしましたが、手持ちの出光キャッシュプリカが使えるものと立ち寄ったGSでは使えなったものを、そこの従業員さんが近くの使えるGSを教えてくれたのです。このような対応は、5月の新潟でも経験しましたが、旅人にはとてもありがたい対応だと感心しました。

※写真は、5局目の豊岡八条簡易郵便局、局の駐車場は局前の2台のみです。

2024年7月21日 (日)

1277.福井・兵庫‘落ち穂拾い’&京都‘マルチ捕り’局メグのご報告-前半-

7/18(木)に、表題の‘落ち穂拾い’&‘マルチ捕り’局メグに行ってきましたので、ご報告いたします。

NO.1260の最後に述べてありますが、福井・兵庫と京都の‘落ち穂拾い’&‘マルチ捕り’を6月下旬に予定していたところ、福井市でさらに7.16に移転改称局が発生することとなり、これも一緒に拾うために1ヶ月延ばしておりました。当初はその初日となる7.16で実施するつもりでしたが、天候が芳しくなく2日後の7.18に実施の運びとなりました。

福井市に向かうのに、米原経由の北陸自動車道で行かずに、岐阜県白鳥経由の東海北陸自動車道・中部縦貫自動車道で行くことにしました。白鳥・福井間の中部縦貫道もだいぶ建設が進んでいて、油坂・九頭竜ダム間だけが未開通で、一般道(国道158号)を使うだけになっています。その区間も現在工事が進んでおり再来年には全通するらしいです。

Photo_20240721090901 1局目は今年1.22に新規設置された福井高木局です。この局は、私の本名にゆかりのある局です。駐車場が約40台となっていたのはシャトレーゼの店舗との共同利用でした。今の時期、安価なシャトレーゼのアイスは大人気で我が家でも定期的に買いに行ってます。

約5.5㌔15分ほど移動して2局目の福井橋南局に着きました(9:30頃)。この局が7.16に福井毛矢局から移転改称した局です。訪問日は移転後3日目ですので、すっかり通常モードとなっていました。これにて福井県の7回目の完訪なのですが、最近、Xで知った情報として‘そよら福井開発’というショッピングセンターの中に、この冬に郵便局ができるようです。新規設置か移転改称かは判りませんが、また近々福井市への訪問が必要になるようです。

福井市内の2局をあとにして、福井ICより北陸自動車道、敦賀JCTより舞鶴若狭自動車道、綾部JCTより京都縦貫自動車道で、終点の京丹後大宮ICで下車して豊岡市に向かいます。途中の峰山二箇局(京丹後市)を予定外でありましたが、立ち寄って京都府の‘44’マルチをゲットしました(12:30頃)。13年前に京都府の完訪となった日(11.11.17)に訪問しているようですが、残念ながらまったく記憶にありません。

当初の予定では、この後廻って行く兵庫県の豊岡市・丹波篠山市の3局のあとに約35分かけて南丹市まで進み、京都府の‘44’マルチをゲットするつもりでしたが、この道すがらの1局を拾っておけば、ラストの丹波篠山東吹局には16時ギリギリに着いてもよいことになり、当日のひらめきにより予定変更をして峰山二箇局を拾ったのです。

この後のことは、後半の記事としてご報告させていただきます。

※写真は、1局目の福井高木郵便局。

2024年7月17日 (水)

1276.「浜松不思議話」--You Tubeより

最近は、TVをあまり見なくなりました。朝食を摂りながら朝のニュース番組は見るのですが、民放を見ていてもエンタメの時間になると、NHKに替えてしまいます。

最近のアイドルの名前も判りません。男性アイドルは嵐かTOKIOあたりで止まっており、その後の男の子は全てスルーです。女性アイドルはAKBグループなどはみんな同じにしか見えません。

夜はもっぱらナイター視聴または聴取、もしくはYou Tubeの視聴です。

DeNA戦をBSとかでやっていれば見ますし、やっていなければビジターではYou Tubeの「ラジオ風実況」(byあまちゃづるさん)を楽しみます。ホームのハマスタではニコニコ生放送で無料で見れたのですが、少し前からサイバー攻撃により見れなくなっています。

私のパソコンのCDドライブが壊れて使用不可となっており、代わりにYou Tubeでさだまさしやかぐや姫・よしだたくろうなどの音楽を聞いていますが、最近は表題の「浜松不思議話」というチャンネルが突然好きになり、熱心に見ることになりました。

さっそくチャンネル登録をしました。現在の登録者数は3,640人と、控え目な登録者数です。

50代の中年オヤジ二人が、浜松周辺の【実話ミステリー】にこだわって取材し、考察をしていくというローカルなチャンネルです。二人は浜北の方で、一人が発案・下調べ・考察し、もう一人は運転手兼一般的な意見を述べるというものです。

現地取材の際には、浜北から現地に着くまでが車中での雑談モードで、以前のネタのおさらいをしたかと思えば、今回のネタの前振りをしてみたり、時には脱線して関係のない雑談に終始しますが、ゆるーい会話は遠州弁まる出しで、遠州の人間には心地よい時間となってます。

今のところ、関心したのは掛川市の小夜の中山の‘夜泣き石’伝説です。詳細は小夜の中山夜泣き石でググってもらえば良いのですが、遠州の七不思議のひとつとなっています。

子育飴を売っている売店の山を登ったところにある夜泣き石以外に、伝説の元となった久延寺の境内にも夜泣き石があり、これは現地取材で偶然に見つけており、その後の調べで、後者の石は偽物であるらしいということとなったのです。お寺の方が偽物とは面白い話です。

浜北の根堅で発見された人骨は浜北人と言われ、歴史の教科書にも載っていますが、本州最古の人骨らしくて、こちらは地元で誇れる遺跡でした。以前は、三ヶ日人なども旧石器時代の人骨と言われていたのが、その後の鑑定により、だいたいが縄文期のものと判り、浜北人が本州最古の人骨として希少価値を持つことになったようです。

その他、地元の人でも特段関心のない地下道を探索してみたり、中年オヤジが少年のように現地取材をする様は、とても微笑ましいです。

2024年7月13日 (土)

1275.家庭の事情って何?

今日から盆入りです。今年は町内で7件を廻る予定です。それから、友人のお母様がお亡くなりになったので、中央区の実家近くの友人宅も14日となりますが、お参りする予定です。

さて、本題です。NO.1267の中で、三宅島・御蔵島に青ケ島を加えた東京島嶼部へのトライを家庭の事情で今年は取りやめたとしていましたが、その‘家庭の事情’のことを話してみます。

皆さんには興味のないことかもしれませんし、別に話さなくても良いのでしょうが、このブログのネタも最近はそれほどないことでもあり、ちょこっと触れさせていただきます。

今住んでいる家の土地を分筆して息子の家を建てるのです。そのために、現在の家の約半分を解体して更地にする必要があり、今は不要となった諸々のごみを処分することに専念しております。

稲生家の長男である息子は、夫婦と一子の3人で近くのアパートに暮らしていますが、当初は二世帯住宅を建てて暮らしたいと嬉しいことを言ってくれていましたが、我が家は96歳と89歳の老親と同居しており、二世帯では足りなくて三世帯住宅でなければ間に合わない形になります。

老親の方は、この歳で新しい環境で暮らすことは御免こうむるとなり、同居話はしばらく頓挫していましたが、老親がかって自営していた織物工場の工場部分を解体してしまい、そこには90坪ほどの土地ができるため、そこに息子夫婦の新居を建てることとなったのです。

私たち稲生夫婦は、旧宅側に老親と4人で暮らすことになり、なんだかうまい話ではなくなったのですが、現状の稲生家の家族構成ではベターな選択と思い、実施することになりました。

織物業は35年ほど前に廃業しております。数台あった織機を撤去したあとは、空きスペースだったのですが、とりあえずここに不用品を保管しておく悪癖が重なって、不用なごみは溜まりに溜まっておりました。

燃えるごみ燃えないごみは45㍑のごみ袋に入れて集積所に出したり、その他の有料となるごみ(浜松市では連絡ごみと呼んでいる)と一緒に、清掃センターに自己搬入したり、金属などは業者による無料回収を利用したり、連日の作業が今も続いております。

昭和25年頃建築の織物工場跡には、ビックリするようなごみもたくさんあります。古びた絵画を包んだ新聞にはマッカーサー元帥がどうしたとの記事が載っていて驚いたり、床下から火鉢が山ほど出てきたり、ボロボロになった練炭が出てきたりetc・・・

実印などを入れていた耐火金庫は、ダイヤル番号をガムテープで固定して使っていたのを2歳の孫がダイヤルをいじってしまい、その後番号を合わせてみても開かなくなり、困った挙句に鍵屋に来てもらうも開かず、いよいよハンマーやドリルで壊して開けるしかないといったところに、母が正しい番号を書いたメモ帳を見つけてすんなり開いてしまったなど、ビックリするようなトピックス満載の処分作業は、佳境に入ってきましたが、あと1ヶ月ほどは続いていきます。

2024年7月 9日 (火)

1274.実録・変形性股関節症-その2-

続きです。この手術というのは、人工関節置換術のことです。

変形性股関節症では、上の骨と下の骨(骨盤側)の間にある軟骨がすり減って痛みを生じるもので、移動をするために歩くと痛むため、まさに‘歩きたくない’状態となっており、それを脱するための起死回生の手術です。

股関節周りの上の骨も下の骨も切り取ってしまい、チタン製の人工股関節に取り換えるもので、私が手術した15年ほど前でも月に3・4件はある、まあまあポピュラーな手術でした

現在では、もっとポピュラーになっているかもしれません。千原ジュニア・前川清・舛添要一などの有名人も施術済みのようです。

さて、手術後はどうなるのか?といえば、まずは痛みはゼロとなります。手術前には関節の軟骨がすり減って痛くて仕方がないところを、神経の無い人工物にしたのですから当然です。痛くも痒くもないのです。

その前に、リハビリが必要ですが、50代前半で受けた私の場合は、それほど大変ではありませんでした。歩くと痛くてたまらない状態を脱して、歩いても何しても不快であることが無くなったのですから。

それでも、健常者と比べると歩行に慎重になっており、駅の階段などでは必ず手すりにつかまります。躓いたり転んだりして、せっかく施術した人工股関節をダメにしてはいけないからです。歩行速度もゆっくりです。現在の速度は、健常者の8掛けくらいといったところでしょうか。

杖を突いて歩くと、だいぶカバーされます。私の場合、1本目の右足を手術しても左足がやや痛むため、それをカバーするために局メグ時には杖を使いました。ちょうど東京23区内や大阪市内などで徒歩にて局メグをした時期だったのですが、局メグ優先ということで、杖を付いて実施しました。一日20,000歩ぐらいになった日もありましたが、翌日に足が痛むとかは無くて、いわば順調でした。

今はほとんど杖を使っていません。使うのは、区役所で諸手続きをする際に、カモフラージュ的に使うぐらいです。一応、マイカーの助手席側に杖を備えてあります。

そもそも、どうして変形性股関節症になったのかと言えば、幼少期に股関節脱臼をしてしまっていたからのようです。今は乳児期のまだ歩行する前に股関節検査をするのですが、私の頃はそれが無い頃で、歩行し始めてから歩き方が少しおかしいと気が付き、地元の整形外科で処置をしたとのことです。

ギブスを付けていた時期があったことは、かすかな記憶があります。それで完治して通常の歩行になったのですが、歩行する前に脱臼を直していなくて歩行してからとなってしまったため、それが健全な股関節形成の妨げになったのかと、私は考えております。

私は男ばかり3人兄弟の三番目、すなわち三男でしたので、両親も子育てに油断があったのでしょう。今は決して両親を攻めることはしませんが、いい加減な親だったと嘆く時もありました。

今が良ければすべて良し。ということで、現在はそれなりにクオリティオブライフを送ることができております。

2024年7月 5日 (金)

1273.実録・変形性股関節症-その1-

稲生のつぶやき(ブログ)の主要テーマである郵便局めぐりの報告は、しばらくお休みです。訪問予定がないからです。それでも、7月第3週には福井と兵庫の‘落ち穂拾い’を計画しております。それまでの期間を利用して、実録シリーズを盛り込んでいこうかと思います。

そもそもブログ(blog)とは、web上の日記と言って良いと思います。ですから、自分の日記を晒してみるのも問題がないものと考えております。

なにしろNO.1262で告白しているように、カラータイマーが発動しており、いつ命が尽きてしまうかもしれないのですから、命のあるうちに話しておきたいことは言っておこうという心境になってきております。

今後、ボチボチと実録シリーズとして、自分の病気のことその他を晒していく覚悟ができてきました。

今回は、表題のとおりで自己の変形性股関節症についてです。さらっと、話してみたいと思います。‘ひざ’ではないですよ、‘また’の方です。

変形性股関節症とは、概要はWikipediaで把握していただければよろしいのですが、股の部分にある「ちょうつがい」に異常があり、歩く度に痛みがあり、生活に支障がある状態になった状態のことを言います。

私が最初に発症したのは20代後半でした。車のクラッチを切る度に痛みが生じたのがきっかけです。この後、診断を受けたところ、変形性股関節症と一発で診断されました。腰の部分のレントゲン写真を撮れば、容易に診断がつくのです。

股関節の庇(ひさし)の部分が小さく、下の骨盤部の臼蓋との接点がしっかり噛み合わないようでした。

この時の診断では、20代・30代では周囲の筋肉によりカバーできているが、40代以降になると痛みが常に生じるとのことでしたが、自分の場合は40代後半でしたか、そのとおりになったのでした。

H15(2003)8.20に東京で局めぐりをしたときに、局メグの最後の方では地下鉄から階段で登るのがとても厳しかったこともありました。46歳でした。その2年後のH17(2005)12.1に名古屋の街中の局めぐりをした帰りには、足が痛くて高齢者にも追い抜かれてしまい、何とか家にたどり着いたことがありました。49歳の時です。

必要以上に歩くと痛みが生じるので、歩きたくないのです。車はクラッチを切らないオートマ車の時代となっており、こっちは問題なく過ごせるため、日常生活と仕事は‘だましだまし’行ってきましたが、さすがにこのままでは仕事に差し支えがあるとのことで、手術に踏み切ったのはH20(2008)2月の時で51歳でした。

実は、これが1本目です。先に右足を手術しました。足は2本あるのでもう一つの足も悪化しており、2本目はH23(2011)1月でした。

長くなりました。その2に続きます。

2024年7月 1日 (月)

1272.道東大遠征その他の小ネタ

7月に入っても北海道ネタをやります!

前の記事で、根室国=93マルチ=根室振興局のように旧国と振興局(=以前の支庁)が一致しているのは、ここだけと述べましたが、14箇所ある振興局・総合振興局単位での完訪となると、昨年夏に達成していた留萌振興局における全32局が1番目の完訪振興局となります。

ここは天塩国=98マルチ=留萌振興局となりますが、根室振興局と違うのは、天塩国=98マルチの一部であると言うことです。それでも、14箇所の振興局・総合振興局の完訪の順番付けとしては、1番目が留萌振興局で2番目が根室振興局となります。

この度、HP上の各明細欄に東京23特別区の時と同様な完訪順番が判るような括弧書きを入れてみました。(留萌根室

Photo_20240628091701 ところで北海道は振興局と総合振興局と呼び分けて旧支庁に大小を付けていますが、個人的にはこの言い回しは嫌いです。14振興局すべてが同等であるべきです。

次に、道東大遠征における事前学習の際に、別海局と本別海局の読み方などが‘べっかい’なのか‘べつかい’なのか、良くわからないとしていましたが、現地の局員さんに尋ねると、どちらでも良いとの返答でした。別海町自身の見解も、Wikiによると‘べっかい’‘べつかい’の双方の読み方を認めるとし、公式表記を求められた場合には‘べつかい’とするとなっています。

北海道の地名は、もともとアイヌ語を日本語の漢字表記に当てはめており、どちらでも良いとの解釈が一番良いということでしょう。○○沼の読みを‘○○とう’と読むのも、‘とう’に沼と言う字を当てたのに過ぎないのでしょうから。現地でも、湖沼の‘沼’は‘ぬま’と呼ぶとおっしゃっていました。

次に、ご報告の本文中でも、国後国道・摩周国道・パイロット国道と書いており、これはカーナビでも表記されていますが、北海道の国道はどこも○○国道と読んでおり、これは言い易いし聞き取り易いと感じます。いわゆる△△街道と同じ言い回しなのかと思いますが、○○国道と言うのが北海道独特であるのが良いと思います。

Photo_20240628093001 続いて、摩周湖観光についての小ネタです。弟子屈方面から先に到着する第一展望台の駐車場は有料Pとなっていて500円取られますが、それをスルーして3㌔ほど進むと第三展望台に着きます。ここは無料です。訪問時は濃い霧がかかっていましたが、そんな朝でも500円取られるのは気分が良いものではありませんので、参考にしてください。

最後に、‘ヒグマ’や‘エゾシカ’および‘キタキツネ’との遭遇結果ですが、‘ヒグマ’には出会いませんでした。このことが一番ホッとしています。

‘エゾシカ’の子どもと思われるシカには1度出会いました。四日目の局メグ終了後に霧深い美幌峠から弟子屈の街に戻る途中のパイロット国道でした。徐行後、こちらは停車しても子ジカは気が付かず、パッシングをしたら気付いて森の中に逃げていきました。

‘キタキツネ’にも1度路上で出会いました。先の霧の摩周湖見学を終えて弟子屈局に向かう時で、道路中央のセンターラインに座っていました。こちらも停車後パッシングをしてみると、なんとキツネは寄って来ようとしたので、これを回避して進みました。だいぶヨレヨレだったので、人間に助けを求めるかのように近づいたのかもしれませんが、こちらは最終日の朝のお仕事が待っていたので、回避して後続車に任せることにしました。

こんなところが道東大遠征時の小ネタであります。この辺で、北海道関連の話題を終わることにいたします。

※写真は、上が旧標津線西春別駅。下が釧路空港のモニュメント。

2024年6月28日 (金)

1271.根室国完訪!と知床ナンバー

今回の道東大遠征において、根室国(=93マルチ)における全44局を完訪しました。記録室・その18に記載のとおりで、67番目の旧国完訪であります。

原則として各県1つの局番号(5桁番号のうちの最初の二桁のこと=マルチと呼ぶ)が当てはめられており、郵便局数の多い東京都は3つ、千葉県・神奈川県・愛知県・大阪府・兵庫県は2つの局番号が附番されているのはご存知とおりですが、北海道においては10個の局番号(=マルチ)が附番されております。

Photo_20240628091601 北海道の10個のマルチは旧国の地域区分によって附番されており、十勝国・釧路国・根室国・渡島国・後志国・胆振国・石狩国・天塩国・北見国および一つの特殊な附番として‘90マルチ’が存在しております。

‘90マルチ’は、石狩国・後志国・胆振国・日高国のうち、石狩振興局・後志総合振興局・胆振総合振興局・日高振興局の部分のようですが、今のところ私の予習の範囲外であることもあり、もう少し深掘りしていく機会が必要となります。

根室国=93マルチ=根室振興局のように、旧国と振興局(=以前の支庁)が全く一致しているのは、この根室国だけというのも今回知りました。北海道のマルチ区分は、なかなか複雑で面白そうです。またの機会に深掘りしてみたいと思います。

さて、根室国は今回の大遠征の二日目・三日目・四日目の延べ3日間で完訪としましたが、前述の記録室・その18をご覧いただくと、少ない日数で完訪している旧国がかなりあることが判ります。

Photo_20240628092701 延べ3日で完訪となったのは志摩国(32)・隠岐国(25)、延べ2日なのは若狭国(37)・安房国(46)・佐渡国(49)・淡路国(54)・対馬国(36)であり、壱岐国(14)は一日で完訪をしております。(カッコ内は完訪時局数)

次はご当地ナンバーとしての知床ナンバーについてです。

根室振興局のうち、根室市を除く地域すなわち、別海町・中標津町・標津町・羅臼町の4町と、オホーツク総合振興局のうち斜里町・清里町・小清水町の3町の計7町が交付の対象です。2020年5月からスタートしております。

これは現地の局員さんとの会話で知ったことですが、ご当地ナンバーでも市が対象地域に入っていないのは、この知床ナンバーだけだそうです。根室振興局のうちで根室市だけが釧路ナンバーであるのも、面白い話です。

本州の人間からすると、知床ナンバーを見る機会はそれほどないので、二日目のラストの別海局訪問後、別海町役場でこっそり激写しておきました(笑)。

※写真は、上が納沙布岬灯台。下が某所で見つけた知床ナンバー。

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