937.遠州地方>静岡県西部地域
今回は、静岡県内の地理的要素として、基本的なお話しをさせていただきます。
私の住む浜松市を中心とした地域を、遠州(えんしゅう)地方と呼びます。これは令制国としての遠江(とおとうみ)国のことを示す俗称であります。遠江とは、都近くの琵琶湖が近くの湖・近江であるのに対し、遠くの湖としての浜名湖・遠江からの命名であります。
例えば近隣の尾張国・三河国や駿河国・伊豆国のことを、尾州・三州・駿州・豆州と俗称で呼ぶよりも尾張・三河・駿河・伊豆とズバリ呼ぶことが多いのに対して、遠江とズバリ呼ぶことは少ないです。遠州と呼ぶことの方が多いです。‘とおとうみ’が言いにくいこともあるのかもしれません。
鉄道の駅では同名回避等を目的として、全国的にも旧国を冠して呼ぶケースが多いのですが、浜松市中区から天竜区までの路線を持つ遠州鉄道鉄道線では‘遠州小松’‘遠州小林’など‘遠州○○’としております。旧国鉄線の天竜浜名湖鉄道でも、‘遠江桜木’‘遠江森’‘遠江二俣’は第三セクターとなった際に‘桜木’‘遠州森’‘天竜二俣’とそれぞれ改称しており、唯一‘遠江一宮’のみ現存しています。
余談ながら、遠江を冠した郵便局としては掛川市の遠江大東郵便局が唯一存在しています。ここは大浜郵便局がS58.7月に移転改称して遠江大東局と名乗ったもので、昭和の時代に後付けで遠江を冠した珍しいケースであります。
そんな遠州地方(=遠江国)なのですが、駿河国との境界は大井川であります。江戸時代に架橋がされなかった‘越すに越されぬ大井川’であります。大井川右岸が遠江国、左岸が駿河国であります。大井川は東海道の難所で有名ですので、それが駿遠の境界であるのは、判りやすいことではあります。
厳密には、河口の右岸の吉田町、左岸の旧・大井川町から、大井川を遡っていき旧・本川根町までが大井川が駿遠の境界となっており、その先の上流部の旧・井川村は、右岸・左岸ともに駿河国です。21世紀の今、リニア新幹線トンネルで注目されている静岡県の最北端部分の大井川源流域は、古来から駿河国であります。
そして、大井川右岸が旧遠江国の榛原郡、左岸が旧駿河国の志太郡でしたが、中流域の川根地区では、昭和の大合併の際に大井川を挟んだ地域間の合併があり、中流域における志太郡(伊久身村・笹間村・徳山村・東川根村)は消滅して榛原郡の所属の町(川根町・中川根町・本川根町)となったのです。それでも志太郡は下流部に残っていた(大井川町・岡部町)のですが、平成の大合併により完全に消滅しました。
話が長くなってしまいましたが、タイトルの部分のお話しはここからです。
旧遠江国起源の榛原郡を西端として志太郡・安倍郡・庵原郡(以上3郡は、すでに消滅)の4郡のエリアを県中部地域としています。判りやすく言えば、牧之原市・榛原郡(川根本町・吉田町)・島田市・藤枝市・焼津市・静岡市のエリアであります。つまり、大井川水系は、全域において県中部地域となったのです。
これに対し、旧遠江国のうち、浜名郡・引佐郡・磐田郡・小笠郡(以上4郡は、すでに消滅)と周智郡の5郡のエリアを県西部地域としています。これも判りやすく言えば、湖西市・浜松市・磐田市・周智郡(森町)・袋井市・掛川市・菊川市・御前崎市のエリアであります。
このうち御前崎市は、小笠郡浜岡町と榛原郡御前崎町との合併ですが、人口・面積の多い浜岡を名乗らずに、昔からの景勝地である御前崎を名乗っており、くしくも浜岡原発の名を隠す形になっており、これを私・稲生は‘浜岡隠し’と呼んでおります。
旧御前崎町は、榛原郡時代は県中部エリアでしたが、御前崎市になってからは県西部エリアになりました。労基署・年金事務所・警察署・税務署から免許センターなど公的機関の所属はすべて、県西部エリアの所轄となりました。
気象庁の予報区分も御前崎を含んで県西部エリアとなり、これまで県西部は駿河湾までは達していなかったのが、僅かながらではありますが駿河湾に届くことになり、私・稲生だけかもしれませんが、秘かに喜んでいるものもおります。
ということで、大変長いお話しとなってしまいましたが、遠州>県西部 の件の話題を終了させていただきます。長々とお付き合いありがとうございました。
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私、18歳まで、貴布祢で育ち、仕事で京都と東京を往復する日々でしたが、70歳をすぎ、完全リタイアー後、東京と貴布祢、半々の生活を送っております。
私の知人に稲生姓(いのう)の人物がおり、酒飲み話しのおり、いささか変わった苗字でもあることから、そのご先祖を尋ねたところ旗本だったとのことです。ルーツは尾張国だったようですが、三河国に移り、家康に仕えた、と聞いているとのこと。ブロガー稲生さんは尾張か三河、あるいは江戸のご出身ですか。
投稿: 平野 | 2024年12月24日 (火) 11時37分
平野さん、
当ブログへのコメントありがとうございます。同じ浜北の在住とのことで、親近感を覚えます。
当ブログは、日記の延長のようなものですが、カテゴリー「遠州ネタ」に入っている記事のいくつかは、平野さんにもわかってもらえるような内容の物もあるのかと推察いたします。
また、ゆっくりとご覧になってみてください。
私・稲生は、浜松市江西地区の海老塚に生まれ育ち、結婚により浜北小松に移り住んだ者で、浜北育ちの方からすれば新参者となります。でも、移り住んですでに40年以上になりますので、すっかり浜北人になっております(笑)。
私のハンドルネーム『稲生』(いのう)ですが、実は本名ではありません。
このブログの親HPとなる『稲生ホームページ』のトップページに詳しく記載してありますが、高校の英語の先生の名字を拝借しております。(http://www3.tokai.or.jp/inou2002/index-holder/inoutoha.htm)
このような人物ですが、これからも時々ご覧になっていただければ幸いです。
投稿: 稲生 | 2024年12月24日 (火) 12時49分
なるほど、ネーミングは高校の恩師の先生の名前だったのですね。納得です。
私、海外に出ていたりで、投稿をしたことを忘れておりまして、貴兄の返信を遅まきながら、やっと拝読しました。
私の知己の稲生さんは、寛政重修諸家譜によれば、犬居の戦い、長篠の戦で功をなし、1500石の知行を得たとのことでした。
最も、自己申告による記述の寛政重修諸家譜だそうですので、どこまで信用できるか、とのことですが。
投稿: 平野 | 2025年2月15日 (土) 20時59分