2024年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

« 1253.たかが‘落ち穂’されど‘落ち穂’ | トップページ | 1255.福岡・長崎大遠征のご報告-その1- »

2024年4月26日 (金)

1254.日南市・串間市・志布志市

今回の宮崎・鹿児島大遠征では、宮崎県南部の日南市・串間市と県境で繋がる鹿児島県志布志市を訪問してきました。

九州としては、鹿児島本線側、すなわち福岡県・熊本県・鹿児島県の島原湾・八代海・東シナ海側が主経路であり、日豊本線側、すなわち福岡県・大分県・宮崎県・鹿児島県の周防灘・日向灘・志布志湾側は、どうしても従たる地域に位置付けられます。

このことは残念ではありますが、現在のところの共通認識となっており、新幹線でも高速道路でも、設置順は九州の西側幹線、東側幹線の順になっているのは事実であります。

Photo_20240503182901 さらには東側幹線においては、宮崎県では宮崎市からは山側の都城市方面に進み、鹿児島県では曽於市・霧島市・姶良市を通過して、鹿児島市に向かうため、表題の日南市・串間市・志布志市となると、ほとんど知識がなくかつ残念ながら興味もない状態であることが多いかと思います。

もちろん、これら3市をよく知っている方もいらっしゃることでしょうが、少なくとも私・稲生は、ほとんど知らないと言って良い地域です。ここで、これら3市のことを改めてお勉強してみることにいたします。

日南市についてですが、‘日’‘南’と太陽や南国にちなむ温暖な地のイメージを強く醸し出しているのですが、城下町である飫肥町と港町である油津町を中心とした新市が、どうして‘日南市’となったのか、これまで特段興味もなく良く判らないまま、こんな良い年になってしまったのでした。

今回、Wikipediaで調べてみて、ハタと合点がいったのですが、宮崎県全域を示す日向国の南の意味だと気が付きました。‘飫肥市’なのか‘油津市’なのか、新市名を巡って対立があり、合併がご破算になるかもれないところを‘日南市’という命名が、それを救ったということです。日南市が誕生したのが昭和25年ということで、昭和の大合併の先駆けとしての合併の成功例として、後発の昭和の大合併のお手本となったようです。

Photo_20240503182902 次に串間市ですが、中心部が福島町なのに何故‘串間市’なのか、‘ふくしま’なのになぜ‘くしま’なのか深掘りもしない中、漠然と疑問に思っていたのですが、やはりWikipediaなどによりその疑問は解消することになりました。鎌倉時代後期から1604年まであったのが櫛間城であったとのことで、それによる‘串間市’との命名であり、合点がいったのです。

最後は志布志市についてです。ここは日南市・串間市が昭和の大合併により市制施行したのに対し、平成の大合併時の平成18年(2006)に市となっております。

市となるのは遅かったのですが、志布志という名称は、昭和に合併でできた日南市・串間市と違って、古来からある由緒ある地名です。ですが私が興味あったのは「志布志市志布志町志布志」という、‘志布志’が3つ、‘志’の数を数えると6つとなる‘志布志’尽くしの事です。

ですので、志布志市志布志町志布志1丁目については、住居表示について、ちょこっと写真を撮ってみました。(宮北写真その4に写真あり)

※写真は、上が訪問8日前の4.1に再開した日南星倉簡易郵便局。下は志布志市の志布志大原簡易郵便局。(上は5.3写真追加)

« 1253.たかが‘落ち穂’されど‘落ち穂’ | トップページ | 1255.福岡・長崎大遠征のご報告-その1- »

地理ネタ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 1253.たかが‘落ち穂’されど‘落ち穂’ | トップページ | 1255.福岡・長崎大遠征のご報告-その1- »