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日記・コラム・つぶやき

2026年9月10日 (木)

1485.巨人・大鵬・卵焼き

9/8に予定していた千葉県勝浦への鉄路の日帰り旅は、秋雨前線の活発化の影響により列車遅延等が考えられたため、来週に順延することにしました。

ですので、今回予定していた報告記事も順延となり、代わりに閑話休題的なネタを提供していくことにいたします。

Photo_20260907202501 『巨人・大鵬・卵焼き』とは、昭和の時代に子供だった方々は、みんな知っているフレーズで、子どもたちが大好きなものを並べて、その時代の象徴とした流行語です。Wikiには、色々詳しく解説されております。

当然ながら、それに対抗する反対勢力もいる訳で、『阪神・柏戸・目玉焼き』は、反抗期を過ぎた青年から大人たちは、好んで使ったものです。

前述のWikiには、『大洋・柏戸・水割り』が、もじった呼称の一番目に記載されていますが、私がまだ若すぎたためか、このフレーズは初耳です。

それよりも、3番目に記載されている『江川・ピーマン・北の湖』の方は、私も良く知っていますが、その心は「みんなが嫌いなもの」という意味です。判るな~!

とにかく巨人は強かった。そして人気がありました。プロ野球全盛の時代にON(王・長嶋)の活躍する巨人軍は絶大な人気を誇り、V9(日本シリーズ9連覇)をしたのですから。テレビ実況放送は、人気の巨人戦しかやっていなくて、プロ野球が詳しくなかった私の妻などは、相手チームは巨人戦以外の時は、休んでいるかと思ったという迷言まで飛び出す始末でした。

大鵬もとても強かった。でも、ご本人はWikiによると、団体競技の野球と個人競技の相撲を同一視されたくなかったようで、「巨人と一緒にされては困る」と語ったようです。どうやら大鵬本人が‘アンチ巨人’だったようで、南海の野村克也に親しみを感じていたようです。

このような昭和を懐かしむネタは、私のような昭和人間には好ましい話題でもあります。もしかして、時々ネタを探しては、話題にしてみようかと思う今日この頃です。

 

 

 

 

2026年8月11日 (火)

1477.令和8年熊本地震の影響

改めまして、今回の熊本地震における被災者の皆様、熊本県の皆様、心よりお見舞い申し上げます。復旧の道は果てしなく長いですが、心を強く持って、負けることなく前に進んで行って下さるよう願っております。

熊本地震では、郵便局も被災しました。震災直後は、多くの局が閉鎖しました。8/5の公示では26の郵便局が閉鎖しておりましたが、8/10の17時現在では5局の閉鎖に減少しております。

爆発による建物崩壊のあったイオンモール熊本では、7名のテナント従業員がお亡くなりになりましたが、地震当時3,000人ほどの来場者と1,400人前後の従業員がいて、直接避難したり、避難誘導により屋外へ避難できたのは、ある意味驚異的なことと捉えています。これが徹底できていなければ、相当大勢の犠牲者が出ていたことでしょう。

Photo_20260809102301 さて、イオンモール熊本には郵便局が設置されております。2023(R5)7.18の設置でしたが、私は半年後の2024(R6)1.30に訪問をしておりました。窓口貯金可能時間が10:00~17:00の時間スライド局でしたので、熊本市内を廻ったあとの締めとして廻っておりました。

今は一時閉鎖中の扱いですが、建物が壊れておりますので、元どおりイオンモール熊本の店内で再開することができるのか、イオンモール熊本本体が再建しない限り難しい状況であります。

実は熊本県の郵便局を、今年4/2122・23の3日間を最後に完訪しており、その際に廻った中に、被災地となった宇城市や氷川町や八代市の郵便局が含まれております。

昨年の8月豪雨で裏山が崩れて閉鎖している下岳局の局長は、八代市の某局に異動しており、その際に、この方と直接お話しをしているのですが、異動先の局も今回の被災による閉鎖リストに入っており(8/7に再開)、去年・今年とダブルで災難にあっていたことになります。

その最後の熊本遠征では、1泊目が嘉島町のホテルAZと2泊目が氷川町のホテルAZに宿泊しております。ホテルAZのHPを見ると、氷川町の宮原店は一時休業をしているようです。(9/1より営業再開:9/10追記)

ついこの前、訪問したり宿泊したりした場所が、被害にあって閉鎖している事実は、大変心が痛む話であります。

10年前に益城町で震度7を観測した平成28年熊本地震でも、多くの郵便局も被災しておりましたが、そもそも私が熊本県を廻り始めたのが、その2年後から今回の地震の直前となる3ヶ月前まででした。益城町などでは、復旧の様子を伺っておりましたが、何ゆえ熊本ばかりが被災するのか、理不尽でしかありません。

※写真は、在りし日のイオンモール熊本内郵便局。

2026年4月22日 (水)

1447.静鉄連節バスで静大へ

ただ今、久しぶりの郵便局めぐりを熊本県にて実施中です。無事に帰還できましたら、ご報告をさせていただきます。

その前にタイトルのとおりですが、4/17(金)に静岡鉄道の連節バスにて、母校・静岡大学まで乗車してきました。 

この4月より、静鉄が県内初の連節バスを導入し、静岡駅~静岡大学、東静岡駅~静岡英和学院大学の両系統にて、平日6往復の運行を開始しました。(こちらこちらの記事参照)

当初は、バスマニアの知人をお誘いして、両系統のバスを1往復ずつ実車していく欲張りプランも計画したのですが、その方の都合がつかず、高校・大学同期の浜松在住の友人との二人旅とし、静岡駅⇒静岡大学の片道のみで、復路は通常の大谷街道を走る路線バスで帰るプランにしました。

Photo_20260420112501 浜松駅で集合し、在来線で静岡駅まで進みました。同期の友人とは久しぶりの再会とあって、車中では色々と話が弾みました。

静岡駅前を10:58発の連節バスに乗り込みます。定員112人のところを乗車したのは、たったの12人でした。おいおい大丈夫かと思いましたが、静鉄バスの運用は、静大便と英和便の2台で運用しており、朝晩のラッシュ時に大きな定員の成果を発揮するのですが、それ以外の時間は、他に運用するすべがなく、通常の大型バスでも良い所をそのまま連節バスで運用しているようです。

それでも、Jリーグ・エスパルス主催試合では、大きな輸送の需要があるようで、その際には、そちらに連節バスを配備したりして、静大便・英和便は通常の大型バスでまかなうことが予想されます。

さて、当日は春の良い天気で、湿度も低くお散歩日和でありました。私は昨年12/8以来の静大キャンパスですが、同行の友人は久しぶりとかで、キャンパス内のそぞろ歩きをし、今回は第一食堂で昼食を摂りました。折しも、新入学や進級直後であり、まだまだ真面目に授業を聴く時期であり、生協食堂は大繁盛でありました。

その後、友人の下宿のあった大学直下の片山の集落を散策し、大谷街道沿いのバス停より新静岡まで乗車しました。

私には、次なる目的があったのです。ゆうちょラリーの申請書を投函することと、そのついでに千円貯金をして、今年度の23マルチをゲットすることです。

実は友人は元静岡県庁職員だったので、東館から入り本館の県庁内郵便局へ。さらには別館の富士山展望回廊へと、中の人らしくスイスイと先導していただきました。この日の富士山はいわゆる春がすみがかかっており、眺望は今ひとつでした。

復路も在来線で浜松駅に進み、16時頃には解散しましたので、そんなに負担のない小旅行でありました。

2026年3月29日 (日)

1441.熊本遠征の延期 他

熊本遠征を延期することになりました。正式には再延期です。

当初、3/10~12にて実施予定でしたが、2週間後の3/24~26に順延していました。(NO.1437に記載)これをさらに1ケ月先の4月第4週に延期することにいたしました。

理由は、家庭の事情であります。同居の養母(妻の母・91歳)が調子を崩し介護状態となってしまい、その去就が二転三転しており、いろいろ忙しくなってしまったことによります。

Photo_20260326092301 2/5に肺炎により日赤病院に緊急入院となり、肺炎は治ったものの、高齢により歩行が困難となってしまい、一時は起き上がるのも出来ないほどの状況に陥ったのですが、その後のリハビリにより、歩行器や杖をついての歩行が可能となるまで回復したため、3/20に退院して自宅に戻ってきました。

入院前には介護認定を受けていなかったため、早々に認定手続きをして2/17に市の担当者が面会して介護度の調査をした時には、まだ全く起き上がれず譫妄(せんもう)状態も見受けられたためか、1ケ月後に受け取った介護判定は、要介護5でした。

その後の急速な回復により、譫妄状態は無くなり歩行可能となっており、現在は、要介護2程度の状態になっているように判断していますが、ケアマネージャーとの打ち合わせにより、自宅で過ごすためのレンタルの福祉用具の手配・選定、訪問看護の要請・契約、デイサービスの手配・契約など、諸々の手続きを妻と二人でこなしているところです。

当初は、自宅介護は諦めて老健施設などに入れる手続きまで進めていましたが、その後の回復により自宅介護でやっていくことになりましたが、とにかく手が掛かっております。主たる介護者は実の娘である妻ですが、妻の負担を減らすべく、私もいろいろ手伝わざるを得ないのです。

おまけに、養母より6歳年上の97歳になる同居の養父がいます。養父は要介護1ですが、年相応にくたびれてきております。この人とて、いつ何時状態が急変となるのか不明です。ヨボヨボしている年寄りと2人同居しているのです。

ですので、私のライフワークとしている趣味活動に暗雲が立ち込めているのが現状なのです。

※写真は、改築前のJR熊本駅と熊本駅前市電のりば(2018.2月撮影:NO.616の再掲)

2026年3月10日 (火)

1437.浜松の河津桜見学その他

だんだん春が近づいてきました。それでも、今週などは最高気温が14℃前後で最低気温が2℃から6℃ほどしかなく、まさに三寒四温の日々となっております。

先日、浜松の河津桜見学に行ってきましたが、勘違いにより目的地を間違えており、葉桜となった避寒桜を見学してしまいました。東大山の河津桜見学に行ったつもりが、その1㌔ほど上流の花川運動公園の見学をしてしまったのです。

Photo_20260307211401 河津桜見学の時期も遅くて、先週であれば、まだまだ満開の花見となったことでしょうが、事を起こすのが遅れたため、今回は失敗をしました。

さて、こちらのブログを1週間から10日ほどお休みさせていただきます。理由は、家庭の事情というのが一つ、ネタ切れというのも一つあります。

3月に予定している熊本遠征は、当初の3/10~12を2週間延期しております。でも、延期しながらも今度は実施できる見通しが立っております。

その前に、一つ廻っておきたい郵便局があり、これは来週の平日に実施できるかと思います。

これらにより、ブログに出来るネタが生まれてきますので、それまで暫時の休止とさせてください。決して、本人の体調不良などではありませんので、ご心配なさらぬようにお願いいたします。

※写真は、本来なら見学で来たであろう東大山河津桜の空からの景色。

2025年12月15日 (月)

1413.居城ゼミ同窓会at静岡

去る12/7・8の1泊2日の行程にて、母校・静岡大学居城ゼミ同窓会が静岡の地において開催され、これに参加してきました。

正式な集いとしては、2018(H30)年11月に次いで7年ぶり(ブログNO.691参照)なのですが、2年前にその中の有志が静岡に集まって、居城先生を囲んだ昼食会に臨んでおり(NO.1213にその予定について記載あり)、その日から数えると2年ぶりであります。

Photo_20251211001801 1979(昭和54)年3月卒業の同期は12名おり、今回はその中の7名と指導教官の居城先生の計8名の再開となりました。7日が、偶然にも居城先生の誕生日だったそうで、御年83歳になられました。今回は最初の昼食会のみの参加でしたが、相変わらずお元気な様子でした。

そして、先生の口癖なのか、今回が最後の参加だとおっしゃっていましたが、いやいや我々79年組ゼミ生は、静岡で開催する限りは、いつもお呼びする所存であります。なんなら自宅に押し掛けてしまうかも(笑)。いつまでもお元気でいられますように!

今回のメンバーは、ほとんどが7年ぶりもしくは9年ぶりの再会でしたが、一人だけ卒業以来48年ぶりにお会いする同級生もいました。今はSNSの時代ですので、私の顔の変貌ぶりも予め知られており、私の方は「道ですれ違っても、相手にバレない自信がある」と思っていたのですが、すぐにバレてしまいました(笑)。

さて今回のサブタイトルとして、居城ゼミ50周年とうたっておりますが、ゼミに入ったのは3年次からで、静大に入学してから50年であり、居城ゼミ50周年には2年ほど足りないのが事実です。そして‘皆ほぼ70歳’としていますが、これは1浪をして入った人の年齢で、何人かいるようです。私・稲生は10日前に69歳になったばかりです。

Photo_202512110041017日の昼過ぎに静岡駅に集合し、駅ビル・パルシェ内の店で昼食会を3時過ぎまで開催し、居城先生をお見送りしたのち、県庁別館21階の富士山展望ロビーで、この日の富士山を眺めたのち、宿泊・宴会の地・用宗に移動して旧交を温めたのでした。

翌日は、用宗海岸を散策後静岡駅に移り、静鉄バスにて大学に乗り込みました。前回以来の7年ぶりの母校訪問です。

ほとんどの者が7年ぶりの母校訪問ですので、そんなに迷うことなく廻ることができましたが、我々が学んだ人文学部棟は、教養部に引き渡され、現在の人文学部(現名称:人文社会科学部)は、かって山の上にあると言われていた教育学部のさらに上に作られており、そこまで向かうのが一番の苦痛でした。そして念願だった(?)学食を第二食堂で摂ったのも、良い思い出造りとなりました。

大学東側にあるイナズマ階段を下りて下宿村散策後、静鉄バスに乗り静岡駅で降車後、解散となったのですが、もう少し宴を張るメンバーもいたようですが、私は、孫の保育園のお迎えが大事ですので、そのまま在来線で帰宅しました。

※写真は、上が居城先生を囲んだ昼食会。下が静大キャンパスでの集合写真。

※この中には、某県の副知事を4年務めた人、某県の教育センター所長まで勤め上げた人、某都市銀行の取締役を務めた人などもおり、私以外はみんな大活躍をされた面々です。

2025年10月31日 (金)

1400.ブログ・LINE・mixi・X・Facebookについて

ライター稲生は、長崎県完訪の旅に出かけており、今回は繋ぎの記事となります。正確には、10/30のうちに帰宅している予定ですが、長崎遠征のご報告をまとめる時間はないため、その間の繋ぎの記事となります。

ちまたに流行るSNSというのは、どういったものでしょうか?SNSとはソーシャルネットワーキングサービスの略で、インターネットでの社会的構築を可能にするソーシャルメディアサービスのことだそうです。

私が中3日を基本として記事を書いている、このブログというのも、SNSの一種かもしれませんが、私・稲生はそれ以外にどんなSNSを使っているのでしょうか?少しご紹介してみましょう。

まずはLINEです。これを始めたのはかなり遅く、4年ぐらい前だったでしょうか。友人や家族と気軽にやり取りできるので、始めてからは便利に使わせていただいております。

隣地に住む息子夫婦が新築する際には、業者と息子夫婦はLINEでやり取りしており、ビジネスにも普通に使っていることに少々驚いたものです。そして今では隣地に住む息子夫婦の家に訪問する際には、必ずLINEで許可を取ってから、訪問するようにしつけられております(笑)。

次はmixiです。このmixiについては13年前に記事にしていました。NO.108をご覧ください。

郵便局めぐり関連を趣味とする仲間うちのネタを知るために、今も繋がっておりますが、私のmixiの使い方としては、郵便局めぐりをしている現地において、その日のご報告あるいは簡単な感想などを、なるべく現地から発信するようにしております。そこでやり取りして、気が付くことも多々ありますので、この発信とその後のやりとりは大事なことかと思っております。

X(旧Twitter)は、アカウントは持っておりますが、こちらからの発信などはやっていません。

Xから発信されるメグラーがかなりいるため、それを閲覧するためにアカウントを持っています。今は主にinukugiyaさんのXから入り、inukugiyaさんのXをチェックするのはもちろん、そこから他の同業者さまのXを閲覧させていただいております。まだ知らない改廃情報など、それなりに役に立つ情報が得られており、Xのチェックは欠かせません。

それからmixiなどからXに移った方が多くいますが、私はそれほど発信する頻度はないため、同業者さまへの閲覧に留まっております。

最後にFacebookです。これも13年ほど前にアカウントをとりました。主に郵便局めぐり関係の閲覧をしようとしていたのですが、最近、自分のプロフィールなどを詳しく開示して、友達も二桁程度に増やして、ある意味本格的に活用をし始めております。

今は郵便局めぐりの同業者の集うグループのいくつかに所属し、mixi同様に現地から、もしくは帰宅後すみやかにご報告をしております。仲間の行動の成果の発表を見ていくのも参考になることがあります。

以上、SNSについては、そんなところです。

2025年5月 6日 (火)

1350.実母の人生

実母が99.99歳の人生を閉じてから、1ヶ月が経ちました。

母は大正14年3月25日に、僧侶の家の第一子として生を享けました。4学年下に弟がいて、母親が早死にをしており、継母のもとに弟が二人いましたが、弟3人は昨年までに死去しております。

生まれは今の愛知県新城市でしたが、父親は雇われ僧侶とでも言いましょうか、良い条件の寺に度々籍を移しており、遠州地方を転々としたようです。そのため転校ばかりしていました。当時の田舎では転校生は珍しいため、好奇な目で見られてしまい、弟と二人で休み時間に校舎の陰で泣いていたそうです。

昭和25年に結婚して、長男がすぐに生まれ、二年後に次男が、そして5学年下の三男として私・稲生が誕生しております。戦後は男性が圧倒的に少なく、父曰く、トラック一杯の中から母を選んだとのことです。

Photo_20250504185901 普通のサラリーマン家庭で、しかも放任主義でした。私が思うに、子どもが男ばかり三人というのが母の誤算だったのかもしれません。そして子供が独立し、夫婦二人となってからが、母にとっては一番幸せな時期だったことでしょう。

母が64歳の時に、三男である私・稲生のドナーとなって片方の腎臓を提供してくれました。養子に出した三男のために提供してくれた無償の愛であります。おかげで、私はクオリティオブライフを得ることになり、何とか68歳の今日まで暮らしていくことができております。

そうです。母は死んで肉体が無くなっても、母の腎臓は私の身体の中に生き続けているのです。この贈り物を大切にしていくつもりです。

父は80歳で死去しました。その時の母の年齢は78歳です。ここからが母の第二の人生が始まりました。20年以上、一人暮らしを続けていたのですから。

母親だけの一人暮らしとなって、勝手気ままな楽しい生活を謳歌していたようです。父親の遺族年金に加えて自分の老齢年金もあり、その年金額は、結構余裕があったようです。

本人曰く、私は通販病だよ。と言うほどの通販好きで、テレビでやっている通販商品を片っ端から購入しており、これらはすべてを使うことはできなくて、家の中は物であふれていました。むしろ、新品のまま放置されている物が多かったです。

これらのことについて、生前は我々子どもたちは諦めていましたが、母の後片付けをしているにつけ、誰か必死に止めるべきだったと後悔しているところです。それでも、オレオレ詐欺などに引っかかって、財産を取られたわけでもないため、そこのところは救われております。

未だに週三で実家に出向いて、兄弟3人で後片付けが続いております。そして連休明けに四十九日法要があり、7月には初盆供養があります。

一連の行事が済むことで、ようやく落ち着くことができるはずです。

2025年4月 1日 (火)

1345.実母の死去

私事ですが、3/23に実母が死去いたしました。

享年99歳でした。満100歳の誕生日が3/25に迫っていましたが、その2日前に息を引き取りました。

老衰です。ロウソクの灯が消えるように、静かに息を引き取ったのです。天寿を全うしたと言えることでしょう。

Photo_20250504190001 3/27に葬儀を済ませました。2月頃までは折からの寒さも影響したのか、火葬場利用が多く、葬儀の1週間ほどの待ちが生じていたようですが、今はそのようなことは無く、希望の日取りでつつがなく執り行うことができました。

火葬されて骨だけになってしまってからは、もう会うことが出来ない事実が現実と判り、寂しさがじわじわとやってきています。

実母死後の後始末はこれからです。中央区の駅南にある実家は、母が一人暮らしをしていましたので、その後始末が待っております。長男がそこを相続するわけですが、長男も独り身でして、そこで暮らせるようにするまでに、三男である私・稲生や近くに住む次男が人工(にんく)として手伝いをする必要があり、しばらくは実家に通って片付け作業をする日々が続きます。

喪に服すと同時に、諸々の後処理が続きます。そのため、しばらくの間、当ブログの更新をストップさせていただきます。

再開の時期は不明ですが、福岡遠征もキャンセルして延期しており、ネタが揃ってきた頃にはブログも再開していきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

write 稲生

 

 

 

2025年1月24日 (金)

1327.鈴木修氏の死去、グリー同期K君の死去

スズキ株式会社の創業家の鈴木修氏が昨年12月に逝去されました。享年94歳でした。

ご存知の通り、自動車メーカー・スズキを世界に名の通る企業に押し上げたカリスマ経営者であります。初代アルトを安価な47万円で販売し普及させ、軽自動車市場を作り上げた上に、インド市場などを新規開拓したフロンティア精神あふれるワンマン経営者です。

この方、経済界だけでは物足らず、日本の政界や静岡県の政界にも大きく影響を及ぼした人物です。森喜朗・小沢一郎も恐れた政界のフィクサーとの話もありますが、地元浜松市では民主党衆議院議員だった北脇康之氏を市長選に担ぎ上げ、その後行政改革で意見が異なると、今度はこれも民主党の鈴木康友を立候補させ、鈴木修氏の掌の中での人事異動を敢行させたのでした。

スズキの企業ぐるみの選挙は、恐ろしい程の集票マシーンでありました。ですから、スズキグループの推した市会議員・県会議員の数は多い上に、前述のような浜松市長や地元選出の国会議員も皆鈴木修氏の息がかかった者が選出されています。

Photo_20250120110201 あの、悪目立ちした川勝平太・前静岡県知事も、時々の鈴木修詣でを欠かさず、当選を重ねたのです。

一介の有権者に過ぎない私・稲生が言うのもおこがましいのですが、経済界のカリスマが政界とりわけ地方政治の事柄に手を出しすぎではなかったのでしょうか?まあ、その功罪には意見が分かれるところです。

次に、私の同級生のK君の死去の話です。昨年12月のことで、享年67歳でした。

浜松西高、静岡大学と私と同じ道を進み、静大グリークラブでは最終的に4人となった同期卒団生のひとりでした。静大グリーでは、学生指揮者となり、彼の厳しい指導の下「木下杢太郎の詩から」を定期演奏会で指揮した一方、「アメロク」のソリストとしても美声を披露していたのがK君でした。

教員の道に進み、確かな判断力と指導性を発揮して、50代そこそこから小学校長を何箇所も歴任し、満期定年を迎えた方です。突然の訃報に驚きつつもお通夜に参じると、彼の功績からか大変多くの参列者がいました。上島小学校にて定年を迎えており、遺影となった定年退職時の彼の姿は威風堂々として、自信に満ちたものでした。

奥様のお話しから判ったことは、2年ほど前から重い病気に罹り、あっと言う間に亡くなってしまったようであります。本人の意向か遺族の意向か判りませんが、新聞紙面での葬儀連絡には何の肩書も入れてなく、本来なら叙位叙勲となるほどの功績もあったのにこれを辞退したようでした。

この御両名に対して、謹んで心よりお悔やみ申し上げます。合掌。

※写真は、初代アルト。

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