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遠州ネタ

2024年7月17日 (水)

1276.「浜松不思議話」--You Tubeより

最近は、TVをあまり見なくなりました。朝食を摂りながら朝のニュース番組は見るのですが、民放を見ていてもエンタメの時間になると、NHKに替えてしまいます。

最近のアイドルの名前も判りません。男性アイドルは嵐かTOKIOあたりで止まっており、その後の男の子は全てスルーです。女性アイドルはAKBグループなどはみんな同じにしか見えません。

夜はもっぱらナイター視聴または聴取、もしくはYou Tubeの視聴です。

DeNA戦をBSとかでやっていれば見ますし、やっていなければビジターではYou Tubeの「ラジオ風実況」(byあまちゃづるさん)を楽しみます。ホームのハマスタではニコニコ生放送で無料で見れたのですが、少し前からサイバー攻撃により見れなくなっています。

私のパソコンのCDドライブが壊れて使用不可となっており、代わりにYou Tubeでさだまさしやかぐや姫・よしだたくろうなどの音楽を聞いていますが、最近は表題の「浜松不思議話」というチャンネルが突然好きになり、熱心に見ることになりました。

さっそくチャンネル登録をしました。現在の登録者数は3,640人と、控え目な登録者数です。

50代の中年オヤジ二人が、浜松周辺の【実話ミステリー】にこだわって取材し、考察をしていくというローカルなチャンネルです。二人は浜北の方で、一人が発案・下調べ・考察し、もう一人は運転手兼一般的な意見を述べるというものです。

現地取材の際には、浜北から現地に着くまでが車中での雑談モードで、以前のネタのおさらいをしたかと思えば、今回のネタの前振りをしてみたり、時には脱線して関係のない雑談に終始しますが、ゆるーい会話は遠州弁まる出しで、遠州の人間には心地よい時間となってます。

今のところ、関心したのは掛川市の小夜の中山の‘夜泣き石’伝説です。詳細は小夜の中山夜泣き石でググってもらえば良いのですが、遠州の七不思議のひとつとなっています。

子育飴を売っている売店の山を登ったところにある夜泣き石以外に、伝説の元となった久延寺の境内にも夜泣き石があり、これは現地取材で偶然に見つけており、その後の調べで、後者の石は偽物であるらしいということとなったのです。お寺の方が偽物とは面白い話です。

浜北の根堅で発見された人骨は浜北人と言われ、歴史の教科書にも載っていますが、本州最古の人骨らしくて、こちらは地元で誇れる遺跡でした。以前は、三ヶ日人なども旧石器時代の人骨と言われていたのが、その後の鑑定により、だいたいが縄文期のものと判り、浜北人が本州最古の人骨として希少価値を持つことになったようです。

その他、地元の人でも特段関心のない地下道を探索してみたり、中年オヤジが少年のように現地取材をする様は、とても微笑ましいです。

2024年3月23日 (土)

1245.磐信小松支店のこと

本日はローカルネタであります。

磐信とは磐田信用金庫のことであり、磐田市を本店として磐田市・袋井市・森町・浜松市天竜区など中遠・北遠地区を拠点とした信用金庫で、2019年1月に浜松信用金庫と対等合併しました。現在は浜松磐田信用金庫(通称では 浜松いわた信金 と いわた のみひらがな表記)となっております。

我が町・小松には郵便局やJAの他には静岡銀行と遠州信金が支店を持っております。浜松信金の支店は北隣の貴布祢及び南隣の西ヶ崎にあります。

Photo_20240330161901 磐信小松支店が進出したのは、昭和の終わりか平成の始め頃だったかと記憶しております。天竜川の東側を主力基盤とする磐田信金にとって、それまでに浜松南支店(向宿)・浜松北支店(船越)・葵町支店・鴨江支店・浜北支店が天竜川を越えて支店を持っており、人口の多い浜松市域に攻勢をかけているように感じておりました。いずれもすでに同業の浜信・遠信がある中での出店ですので、職員は大変な思いを持って顧客獲得・業務拡大を目指したものと推察いたします。

磐信小松支店は、浜北地区には西美薗に設置した浜北支店に次いで2店舗目であったのですが、当然のことながら、磐信職員は新規口座獲得を目指して、小松地区の各家庭に戸別訪問してきており、我が家では祖母が反応して、孫のための定期積金をとりあえず始めるということで、口座が開かれました。その後、子どものお年玉貯金などでも使用し、彼らが大人になってからは奨学金の返済口座として使ったのですが、私たち夫婦もいつの間にか口座開設して、それなりに利用するに至っております。

それで、浜信との合併後の処理に気に入らないことがありました。

Photo_20240330161902 まず西ヶ崎支店が建物を作り直すということで、小松支店の地に店舗内店舗で入ってきた後に、今度は西ヶ崎・小松支店が西ヶ崎の地に新しく作り直した場所に移転したのですが、小松支店の顧客には、新聞折り込みのチラシだけでの知らせであったのです。小松支店の顧客としては、ハガキの1枚でもいただきたいものです。

「磐信の口座を作る時には大変熱心に家庭訪問していたのに、小松の地を出て行くときには折込チラシ1枚だけなのかよ!怒」と文字通り怒りが湧いて、移転直前の西ヶ崎・小松支店に掛け合うと、支店長が私の自宅まで出向いて回答するも「本部がそのように言ってますので」と、まるで他人事のような返事で終わりました。

そのとき、本部での電話応答の窓口だった職員が、人事異動で西ヶ崎・小松支店に来て私の自宅まで挨拶に来たのですが、なんとその職員は祖母から孫の定期積金を獲得した職員だったのです。彼曰く「昔のお客様に怒られました!」

小松支店で口座獲得に邁進した職員が、立場が違うとはいえ、血の通う移転処理を出来なかったということです。彼は、1年足らずで本部に異動していき出世していったようです。

まあ、そんな個人的なやり取りがあった磐信小松支店のスタートからエンドまでの小ネタでした。

※写真は、上が旧磐信小松支店。現在は住友生命がテナントとして入居している。下が浜松いわた磐田信用金庫西ヶ崎・小松支店。

2024年3月15日 (金)

1243.遠鉄奥山線跡の散策

今月はバイトのオファーがあり、元目町まで遠鉄電車で通勤しております。

昨年1月に本庁に通った時には遠州病院駅での往復でしたが、元目庁舎はそれよりやや北方にあります。そのため、今のところ往路は遠州病院駅ですが、復路は八幡駅まで歩いて乗車しております。そろそろ往復ともに八幡駅乗下車にしてみようかと考えております。

Photo_20240313201201 往路の遠州病院駅からは、遠鉄奥山線跡を進んで元目庁舎に進んでおりますが、このことを秘かに喜んでいるのは私くらいのものです。奥山線という軽便鉄道のことを知らない世代の大人がほとんどだからです。

遠州鉄道奥山線とは、遠鉄浜松駅(現・遠州病院駅)から分岐して三方原台地を北上して、国鉄二俣線(現・天竜浜名湖鉄道)の金指駅を経由して、奥山方広寺のある奥山駅まで、営業キロ25.7㌔の軽便鉄道です。昭和39(1964)年11月に廃止されました。

三方原台地上では、廃止の前後頃から住宅供給地となってきており人口も増えて行ったため、なにゆえに廃止したのかと疑問に思う方もあろうかと思いますが、狭軌(762ミリメートル)のままでは、輸送スピード等の問題があり、1,067ミリメートル幅の狭軌または標準軌(1,435ミリメートル)に設備投資していく必要があったため、廃止の選択をしたようであります。

70代後半の方では、浜松北高校や浜松市立高校への通学で利用した方もいらっしゃることでしょうが、私・稲生は奥山線廃止時の年令は8歳で、浜松駅駅南の下町育ちですので、ほとんど縁がありませんでしたが、一度だけこの奥山線に乗車した思い出があります。

Photo_20240313201401 それは黄金週間(現・ゴールデンウイーク)の時期の浜松まつりにおいて、町内で出している凧揚げ会場行きのバスに何らかの理由で乗り遅れて、当時の凧揚げ会場である和地山公園まで乗車したのです。帰りは町内バスでしたので片道だけでした。稲生少年は小学校1年か2年の時でした。中学生であった6つ年上の兄に連れられてのことです。細かなことは覚えておりませんが、確かに乗車したことに間違いはありません。

元城駅跡にはホテルコンコルド浜松が建っております。狭い面積の駅跡を上手く利用し、南側の浜松城公園を借景としており、したたかな遠鉄らしい経営手法です。

もう少し進むと国道257号をくぐる亀山トンネルがあり、ここから暫くは遊歩道となっております。今でもそうなのかな?北高生と市立(イチリツ)生のカップルが仲睦まじく歩くことができる歩道なのです。

補足しますと、浜松北高校は西遠地区ナンバーワンの進学校で、浜松市立高校は通称イチリツと言って2004年までは女子高でした。

私が昼休みに散歩できたのは、この亀山トンネルまででした。もう少ししたら、浜松城公園の桜が咲きますので、次の機会にはその話題でもさせていただきます。

※写真は、上がホテルコンコルド浜松、下が亀山トンネル。

2023年12月 6日 (水)

1214.来年1.1より浜松市の行政区が7区から3区に再編

来る2024.1.1より、浜松市に7つある行政区が3つに統合されます。

これは、前職の鈴木康友市長の選挙公約でもあり、この再編の目途が付いたということで、退任しております。康友氏は、まだ66歳と若いので、次の県知事選にでも出馬するのではないかと踏んでおります。

7区から3区に統合される経緯については、カテゴリー内の〔遠州ネタ〕にて、何回かに亘って触れておりますので、興味のある方は、そちらを眺めてみてください。

改めて説明すると、中区・東区・西区・南区及び北区の三方原地区は『中央区』、三方原地区を除く北区と浜北区は『浜名区』、天竜区は区域と名称の変化なしの『天竜区』となり計3区となります。

Photo_20231203023901 左の表の色塗りのとおりのカラーがそれぞれの区のシンボルカラーになったようです。これからは、水色とオレンジ色と緑色がそれぞれの区に当てはめて使われるようです。

『中央区』は面積268.45㎢人口608,145人、『浜名区』は面積345.77㎢人口155,996人、『天竜区』は面積943.84㎢人口25,681人となり、面積比では『中央区』17%『浜名区』22%『天竜区』61%であり、人口比では『中央区』77%『浜名区』20%『天竜区』3%と、極めていびつな政令指定都市の区割りとなってしまいました。

浜松市の都市部には都市的機能及び先端技術産業が集積し、平野部には都市近郊農業があり、沿岸部は水産資源に恵まれており、中山間地域は広大な森林を有しており、それゆえ浜松市は国土縮図型都市であると、何かの本に記載がありました。

まあ、分かり易く言えば商工農林水産なんでも有りの町ということでしょうか。

ここで、ひとつ問題点があります。それは、施行日が1.1であるということです。そうです、年賀状の住所は新区名で受け取るのが正しいと言うことです。

A区が『中央区』B区が『浜名区』に決まったのが昨年の11月です。少なくとも浜松市民には認知されていることでしょうが、何しろ新区名を書き慣れておりません。ですので、『東区』『西区』『浜北区』などと、これまでの区名を書いて投函するうっかり者もいることでしょう。

それよりも、受け取る年賀状にどれだけ正しい区名を書かれていることでしょうか?一応、私の今年(2023)の年賀状には、〈2024.1.1より『浜名区』になる予定です〉と添え書きをしておいたのですが、人数分をまとめて作成する昨今では、どれだけの個人が住所表記対応をできていることか、心配ではあります。いや、むしろ何%の正答が得られるのか、楽しみでもあります。

2023年5月23日 (火)

1163.真・三方ヶ原の戦い

大河ドラマ『どうする家康』の第18回は、‘真・三方ヶ原の戦い’でした。

徳川家康の一生を大河ドラマに仕立てた『どうする家康』は、岡崎・浜松・静岡の3都市がご当地として賑わっているのですが、5/5の家康公騎馬武者行列の記憶も新たな5/7と5/14の2回は、三方ヶ原の戦いをテーマとした回で、地元・浜松が話の舞台となりました。

三方ヶ原の戦いとは、家康の三大危機の一つです。三大危機とは‘三河一向一揆’‘三方ヶ原の戦い’‘伊賀越え’なのですが、いずれも、一歩間違えば、家康は消し去られるか、勢力をそぎ落とされるかの危機で、その後に江戸幕府を開いて260年の長きにわたる安定政権を築き上げることは出来ていなかったと言われるほどの危機でありました。

‘三方ヶ原の戦い’は、徳川家康が結んでいた武田信玄との同盟関係が破棄され、信玄が駿河国・遠江国に侵攻してくるのですが、家康の居城・浜松城を前にして、素通りする動きを見せたため、まだ31歳の若き家康は、城への籠城作戦を変更し三方ヶ原へ戦いを挑むことにしました。

Photo_20230522165301 ところが、多勢に無勢、武田軍22,000に対し、徳川軍は織田援軍を含め8,000(諸説あり)、なすすべもなく徳川軍は敗走したのでした。

織田援軍の平手汎秀や徳川軍の本多忠真・夏目吉信など、多くの武将が戦死したのですが、とりわけ家康の身代わりとなった夏目吉信(広次)(演:甲本雅裕)については、ドラマの中では、家康の幼少期の人質時代や三河一向一揆で一向宗側に付いたのち許されたこと、など長い尺を使って演出されていました。

5/5の騎馬武者行列にも、参加しておりました。ここ浜松が夏目吉信の死に場所だったのですね。

と言うわけで、5/14の放映後、1日明けた5/16に鹿谷町の‘犀ケ崖資料館’に行ってきました。場所は姫街道(国道257号)浜松布橋郵便局のすぐ南です。入場無料で毎週月曜日は休館ですので、放映後最初の営業日の朝に早速訪問した次第です。

‘犀ケ崖資料館’は、場所こそ承知していましたが、何故か素通りしてばかりいて、今回が初めての訪問でした。70代前半と思われるボランティアガイドさんが、三方ヶ原合戦のジオラマを前に、大変熱心に説明してくれて、こちらは2日前に‘真・三方ヶ原の戦い’を観たばかりなので、興味は尽きることなく、三方ヶ原の戦いをそれなりに深掘りできました。

その後、根洗町にある市営三方原墓園の脇にある「三方ヶ原古戦場碑」および都田川沿いにある井伊直親の墓に立ち寄ってきました。

※写真は、三方ヶ原古戦場碑。三方ヶ原の戦いは、場所が特定されておらず、広い三方原台地の上で戦いがあったというだけのこと。言うなれば、桶狭間の戦いにおける古戦場碑と同様、どこに建立しても間違いではない。

2023年5月 8日 (月)

1159.家康公騎馬武者行列

GWの最中の5/5の子どもの日に、地元浜松市では『家康公騎馬武者行列@浜松まつり』というビックイベントがありました。

大河ドラマ「どうする家康」主演の松本潤さんほかの役者が、浜松市の鍛冶町通り&広小路通りをパレードするというもの。

TVニュースなどで報じていましたので、ご存知の方も多いかと思います。(NHK記事は こちら 削除されています。)

このビックイベントを観覧してきましたので、ご報告いたします。

妻の指示により、この催しに応募したのが4月上旬。20,000人が当選するとのこと(後に、増員があり22,000人が当選)。(応募のきまりでは、二人一組で応募)

どうせ当たることはないと、たかをくくっていましたが、抽選発表が4/27にあり、なんと当選してしまい、予期せぬ事態になりました。

妻の会社の人は妻以外全員外れるという、なかなかの倍率(倍率は非公表)だったようですが、稲生家では、娘が嵐ファンの友人とともに当選しており、稲生家のGWは、これの準備でにわかに忙しくなりました。

Photo_20230507153101 準備といっても、折り畳み椅子を購入しておくくらいのもので、あとは当日のスケジュールをどうするかという程度の準備でした。

結局、娘チームは遠鉄小松駅を9時半ごろの電車で、我ら夫婦チームは11時の電車で、観覧場所へ いざ出陣したのでした。もちろん、乗車前にコンビニで昼食を調達した上で。

受付開始は12:00で、当選したそれぞれの観覧エリア毎に行列を作って待ちました。ここで、さっそく折りたたみ椅子が役に立ちました。待つこと30分(娘チームは2時間くらい?)チケットと本人確認・手荷物検査を経て、32箇所に分けられた観覧エリアに入場です。

22,000を32で割ればわかるのですが、1箇所の観覧エリアには700人前後が詰め込まれるのです。前から5列目ぐらいを確保して、鍛冶町通りの歩道上で2時間ほど待ったところで、定刻の14時にイベントは始まりました。

イベントが始まると、全員が立ち上がって前列に殺到し、立ち遅れた我ら夫婦の場所からは、大事なイベントはほとんど見ることができません。かろうじて、折りたたみ椅子の上に乗って撮影したのが、添付の写真でした。

現地到着後、さんざん待った挙句、肝心なイベントは音だけが聞こえる程度で、これなら自宅でライブ映像を「ゴゴスマ」で見た方が良かったとの感想になりました。(「ゴゴスマ」では、2時半過ぎの能登半島地震で中継がストップしていたとのこと)

早くに行って前列を確保できた娘チームは、ある程度、松潤はじめの面々を観覧できたようです。

ともかく、GWの一大イベントは、現地に行っていたという事実だけは間違いなくあり、なんとか無事に(?)終了したのでした。

※写真は、我ら夫婦チーム撮影のもの。松潤ど~こだ!(笑)  娘チームは、しっかり撮影できてます。こちら

2023年3月18日 (土)

1145.バイクのふるさと浜松

今月は軍資金稼ぎのためのアルバイト月のため、郵便局めぐり関係の話題は少なく、その他の話題を色々と脈絡もなく、記すことになります。

1月のアルバイトの際に所要業務が完了し、あまりに手持ちぶたさのため、浜松市のHPを嘗め回すように閲覧していて、その中から気になった事柄をピックアップしてみることにいたします。

初回は、表題のとおりで『バイクのふるさと浜松』です。

該当ページは こちら

現在も存続しているバイクメーカー4社のうち、ホンダ・スズキ・ヤマハの3社が浜松市をルーツとしております。それゆえ『バイクのふるさと浜松』なのであります。

Photo_20240730184601 バイクのことを、ポンポン と言っておりましたが、これは遠州地方の方言です。さすがに、現在では ポンポンと言う人は少なくなりました。

ホンダ・スズキは、現在の主力は四輪自動車メーカーですが、そのルーツはバイクだったわけです。ヤマハは楽器製造から派生してオートバイ製造部門をヤマハ発動機として分離したのですが、そのエンジンは、四輪自動車にも供給しております。

私も学生時代にホンダのスーパー・カブに乗っておりました。当時の一般大学生のうち、自転車から一歩進んだ者はホンダかヤマハのカブに乗っていたものです。東京・大阪などの都会の学生と違って、交通機関の発達していない地方の大学生がバイクに乗るということは、機動性を得ることになり行動範囲が広くなることを示しており、とても便利な乗り物でした。

その後、さらに出世すると四輪自動車に格が上がっていくのでした。私は、たまたま父親のおさがりのトヨタカローラを3年次後半に譲り受けたので、その守備範囲はさらに広がり、学生生活のステイタスは上位クラスになっていったのです。

ただし、駐車場問題がありました。

行き止まりのような場所に下宿していたので、路上に適当に置いていたのですが、ある日張り紙が貼ってあり、最寄りの交番まで出頭するようにとのことでした。恐る恐る交番に出向くと、自分の出身地の交番に勤務したことがあるとかで、そのことに終始して面談は終わり、駐車場問題は不問に処されることになりました。その後も卒業まで路上に置いたのですから、何だか長閑な時代だったのです。

今度、同行者ができて6月に小笠原に行くのですが、その際にはレンタバイクを借りる予定があります。式根島以来で、実に40数年ぶりにバイクに乗ることになりますが、運転できるのでしょうか?多分、身体が覚えていることでしょうから、そんなに心配はしておりませんが・・・

とうことで、後半は稲生の‘つぶやき’らしく迷走した挙句、自分の事に関連づけたところで、終わることにいたします。

2023年3月10日 (金)

1143.浜松市行政区 7区から3区に再編

現職の鈴木康友・浜松市長の懸案だった行政区の再編について、現行の7区から3区に再編する条例案が、2/22の浜松市議会において賛成多数により可決成立いたしました。これにより24年1月1日より3区に再編されることとなりました。

鈴木康友市長は10年来の懸案を果たして、今年4月の任期満了とともに退任し、後任の市長に後を託すことになります。

私・稲生は末端の臨時職員ながら‘中の人’ですので、その多くを語ることはできませんが、07年4.1の政令市施行時に7区で発足してから16年が経過しようとしている中では、7区なりの組織が出来ており、それを一気に壊して3区に絞るという作業は、どうしても強引なものにならざるを得ないと推察いたします。

残り10ヶ月を切っておりますが、とりあえずは4/1の人事異動の状況を見ることで、その動きが少しは判ってくるものと考えております。今月中旬の内示をみることで、3区再編の輪郭を知ることができるものかもしれません。これについては、新聞発表等で知ることができますので、それを踏まえながら、見守っていくことにしたいと思います。

ということで、3区のうちA区・B区の区名が「中央区」・「浜名区」に決まりましたが(NO.1110参照)、これにまつわる話題を少々つぶやいてみたいと思います。

現行の浜松市中区中央1丁目から3丁目は、浜松市中央区中央1丁目から3丁目となります。普通に考えると、ここが浜松市のど真ん中と思われるのかもしれませんが、それは間違いです。

ここは元々は東街区と呼ばれた都市計画地域であり、ここが整備された際に、何故か中央1丁目から3丁目と名付けられたものです。浜松駅の北東部にあり、静岡文化芸術大学や県総合庁舎・裁判所などがありますが、浜松市街地の東側にあたる地域です。何より東小学校もあるのです。

中央1丁目から3丁目となる前の昔の時代の町名としては、板屋町・常盤町・八幡町・野口町(以上は一部町域)、馬込町・新町・松江町(以上は全域、松江町の駅南部分は北寺島町に変更)でした。

浜松市内の地域区分では、元城町・松城町あたりから鍛冶町・千歳町あたりまでが中央地区、船越町・野口町からこの中央1丁目から3丁目を経て板屋町あたりまではアクト地区(20.1.1名称変更、旧名称:東地区)なのであります。

浜名区となる地域の中心部は、便宜上は現行の浜北区役所が浜名区役所となりますので、北浜地区貴布祢となることでしょう。東西に広い浜名区エリアでは、かなり東側に位置しておりますが、現行の北区の方々も北区役所のある旧・細江町地区が中心部であるとは言いにくいことでしょう。

それを解決するのは、稲生私案とも言うべき新都田に区役所を置くというものですが(NO.1016参照)、それを進めていくのは3区再編が落ち着いた後のことで、早くても10年先のことです。それまでは北浜地区貴布祢が浜名区の中心部(仮)という事にしておきましょう。

2023年1月28日 (土)

1132.静岡銀行成子支店のお話し

地元ネタの続きです。

海老塚町(行政地域名としては、海老塚1丁目・2丁目及び海老塚町)の氏神様である鹿島神社の正面向かいに、静岡銀行が成子町から引っ越してきました。もう十年以上も前のことでしょうか。

そして新支店名は静岡銀行成子支店です。つまり移転改称ではなく、移転のみであります。

今回調べを進めていくと、新幹線駅のすぐ近くにあった砂山支店も店舗内店舗として、成子支店内に配置されておりました。(7年半前)つまり、成子支店・砂山支店ともに中区海老塚1丁目に住所があるのです。あろうことか、海老塚のど真ん中に成子支店が営業しているのです。

Photo_20230129125101 添付した地図にとしてあるのが成子支店のあった場所、が現行の成子支店の場所、は砂山支店のあった場所です。静岡銀行としては、の場所は、のかっての利用客からしても中間点にあり、①③よりも交通量も少なく、説明が付きやすい場所であることでしょう。ですが、海老塚のど真ん中ですよ。成子支店が移転してきた際に、海老塚支店に改称するのが正解だったのではないでしょうか?

私も地元企業で経理業務も担当していましたので、静銀成子支店といえば浜松支店に次いで顧客数があり、名称を変えると事務作業量が増加してしまい、そのままにしておきたい気持ちはわからないでもありません。

それでも、成子町は県居(あがたい)地区、海老塚町は江西地区、砂山町は駅南地区であり、中学校区はそれぞれ異なります。さらには、実は私の実家がと同じ街区にあるのです。この場所は私の幼少期は空き地でした。この場所で私は自転車に補助輪なしで乗れるようになったのです。つまりこの場所は、まぎれもなく海老塚町なのです。

ところで、浜松海老塚郵便局は上浅田2丁目にあります。浜松向宿郵便局は中島1丁目にあります。ともに海老塚や向宿から移転してきたケースです。ですが、町はずれに移転したために、それぞれ20㍍・150㍍ほど隣町に入ってしまっただけのことであり、中学校区を跨いでいるわけでありませんので、これは許容できるのかと思います。(2つの局ともに、地図の中にABにて記載されています。)

長らく磐信(現・浜松いわた信金)海老塚支店に年金口座を置いていた私の実母は、海老塚支店が川向こうの駅南支店(地図上のスーパーいしはらが記載されている場所)の店舗内店舗になり遠くなったのを機に、家から50㍍もかからない静銀成子支店に口座を移し、近くなったことを喜んでおります。

ということで、すでに十年以上も前に移転してきた成子支店の名称を変更せよなどとは、今さらジローであります。それを言い出すやる気元気勇気はありません。それゆえ、ブログ上だけで文句を言う事に留めておきたいと思います。

2023年1月25日 (水)

1131.鹿島神社・大厳寺踏切

今回は、私・稲生の生まれ育った実家ネタを、つれづれなるままに記してみたいと思います。

先日の初詣の記事で、実家の氏神様である海老塚の鹿島神社に実母とともにお参りしたことに触れたのですが、久しぶりに見る神社境内は、かなり小さく見えました。

子どもの頃の境内は子どもたちの遊び場で、三角野球をしたり鬼ごっこをしたり紙芝居を見たり、お祭りの日には田舎芝居がかけられたり、相撲大会が開催されたりと、この境内は町内の子どもたちの心のよりどころだったのですが、今見る境内の小さいこと。こんな小さな空間で、色んな遊びが成り立っていたとは、改めて驚きを感じました。

神社正面となる南側は、現在は片側二車線の立派な道路ですが、当時はその半分しかない道路でした。周囲に信号機などない時代に、小学校低学年だった私は、この道路を横断するのが苦手でした。年上の子どもが隙を見て渡るのに、自分は車が見えると渡れない判断をして躊躇するため、なかなか渡れないのです。

Photo_20230121145001 それでも、渡ることのチャンスが訪れるのが、西側にある東海道線の踏切の遮断機が下りている時です。西側の交通は遮断され、東側の車のみを見て渡って行けばよいのです。この踏切は大厳寺(だいごんじ)踏切と言いますが、なかなかの‘開かずの踏切’でした。

曹洞宗大厳寺は、今は東伊場のJR浜松工場の南側に移転しておりますが、小学生のころまでは東海道線脇にあり、今は大厳寺のあった場所に浜松市福祉文化会館(現名称:浜松市福祉交流センター)が建っています。その線路脇に小川というか‘どぶ川’が流れており、ここに架かる橋が大厳寺橋であり、現在も路線バスのバス停名として残されております。

浜松の‘開かずの踏切’と言えば、平田(なめだ)踏切が有名ですが、大厳寺踏切は、その一つ南にあった踏切です。正確に言うと、その間に歩行者・自転車のみが通れる平田第二踏切がありました。この踏切も当然‘開かずの踏切’なのですが、平田踏切・大厳寺踏切に比べて利用者が少ないため、私は高校からの下校時には、この踏切を良く利用していました。

東海道本線の高架化完成が1979(昭和54)年ですから、大学を卒業して地元に戻ってきた時には、良くも悪くも存在感の大きかった‘開かずの踏切’は、お役御免となったのでした。

もう一つ、触れておきたいのは鹿島神社の向かい側にある静岡銀行成子支店のことです。海老塚の街のど真ん中にあるのに、隣町の成子町の名を語っており、私はこれに怒りを覚えております。

この話は次回の記事で、怒りを持って展開していくことにいたします。

※写真は、実家近くの鹿島神社。1.9訪問。

より以前の記事一覧