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遠州ネタ

2024年10月 4日 (金)

1296.森山良子の元旦那は浜松の人

続いての繋ぎの記事は、歌手の森山良子さんの元旦那のお話しです。

森山良子さんは「この広い野原いっぱい」で歌手デビューしており、私の高校時の音楽の教科書にもすでに載っていたメジャーな歌手です。その後も、音域の広さを最大限に利用して美声を披露しており、76歳になる現在も第一線で活躍されているスター歌手であります。

過去に二度結婚しており、一度目の結婚相手は一般人であり初婚相手としか記載がありませんが、長女を生んで離婚後も森山良子が生育して、その長女はお笑い芸人おぎやはぎの小木博明と結婚しております。

二度目の結婚はジェームス滝というミュージシャンであり、長男・森山直太朗を生んでこれまた離婚後も森山良子が生育してシンガーソングライターとして活躍していることは、皆さまご存知のとおりです。

二度の結婚でも、すぐに離婚しており、授かった子どもを立派に育て上げておられますが、夫婦生活としては相手が悪かったのかどうかよく知りませんが、大きな✖が二つ付いております。ですが、歌手生活が充実していますので、人生においては大成功を収めた方だと言って良いと思います。

ここからが本題ですが、森山良子さんの初婚相手は「浜松市出身の上智大学生」とだけ表現されておりますが、私は知っているのです。私・稲生の実家の海老塚町にあった渥美製作所の息子でした。

ネット記事を読むと、親離れできずに自立できない彼に、森山良子が愛想を付かしたとなっています。でも、離婚までに4年近くかかっており、森山良子が縁を切るのに苦労したとなっています。

海老塚町の新川の四郎五郎橋のたもとに渥美製作所はありました。すでに、森山良子は有名人だったので海老塚町の住民は、二人の結婚のことは皆知っていました。

渥美製作所は、その後浜名湖近くの雄踏町に移転しアツミテックと名称変更をし、さらには高丘町に移転しております。ホンダの下請けメーカーとして資本金3億超で従業員3400人(連結)の大きな会社になっています。

森山良子の元旦那は二代目社長になったのか?そのあたりのことはアツミテックの中の人に聞いてみないと判らないのですが、アツミテックの現況の役員を見ても渥美性の役員は社長以下誰もいないのです。渥美家が会社譲渡をしたのか?渥美家が追い出されたのか?そこのところは全くわからないという、掘り下げた割にはどうでも良い記事となってしまいました。

おしまいです!

2024年9月30日 (月)

1295.職務乗車証

いよいよ道南大遠征へ出発することになりました。ですので、繋ぎの記事を一つ用意しました。

それは私が勤めていた地方鉄道・遠州鉄道で使用していた「職務乗車証」という名の便利な乗車券のお話しです。

ネットを見てみると、福利厚生か?それとも既得権益か?と疑問を呈しての紹介がありましたが、ここでは私・稲生が在籍していた頃の事実を示してみたいと思います。

在籍していたのは、1979(昭和54)年から1998(平成10)年までの19年弱の間でした。ですので、これからお話しするのは過去の良き時代の話であって、現在は正常化しているものと推測しておりますが、現状のことについては詳しく調べてあるわけではありませんので、その変更点は良く知りません。悪しからずごめんなさい。

「職務乗車証」では、遠鉄の電車とバスのフリー乗車ができます。遠州地方の湖西から天竜、袋井あたりまで路線を網羅しておりますので、自分の生活圏は、この「職務乗車証」で無賃乗車が出来るのです。

その代わり、通勤手当なるものは存在せず支給されません。私のような事務職は遠鉄電車の往復で通勤が完了しますから、この「職務乗車証」の使用によっており、通勤手当代わりになっておりますので、何ら問題はありませんが、バスや電車を動かす現業の方も通勤手当は支給されず、彼らは自腹で燃料を入れた自家用車で通勤しており、どう見ても不公平な感じがしておりましたが、私が在籍して時期においては、このルールに基づいておりました。

「職務乗車証」で私鉄バス・電車に無賃乗車ができました。私鉄総連の御旗の下、相互協力ということで、お互いの路線をフリー乗車できました。乗車券部分だけです。ですので、特急券を必要とする電車では一般の顧客同様に有料乗車をする必要がありました。私鉄総連関連ですので、天浜線のような第三セクターや営団地下鉄・都営地下鉄などは該当しませんが、社内で鉄ちゃんな者には、それはもうよだれが出るような、有難いルールでした。

さらには国鉄時代の国労・動労繋がりで国鉄の区間も、遠鉄の「職務乗車証」を呈示することで無賃乗車ができました。嘘だろう!と思われるのが正常な方の判断ですが、これは事実でした。それでも静岡鉄道管理局管内エリアだけの適用だったようですが。

実際に初任地は福田営業所でしたが、当初は浜松駅前から国道150号を走る路線バスに乗り70分程度かかって通勤していたのですが、国鉄浜松駅から磐田駅まで「職務乗車証」で乗り、磐田駅から乗り換えて磐福線で営業所まで向かった方が早く着くことが判ってからは、その方法に切り替えていました。

組合繋がりの私鉄国鉄相互乗車なのですが、非組合員である所長はもちろん役員までもこの恩恵を受けておりました。ホント、昭和は良かったといった衝撃の事実でした。

今では、どのように改善されているのか、私は存じ上げておりませんが、ご存知の方がおられましたら、コメントなどで教えて頂ければ有難いです。

2024年9月18日 (水)

1292.シソンヌ長谷川

次は、シソンヌ長谷川についてです。誰の関係者かというと、私・稲生が少しだけ関係しております。

お笑いタレントばかりか俳優としても活躍しているようです。何だか不遜な顔をして、いつの間にかMCなども担っており、芸能界を上手に渡り歩いていきそうなタレントです。

私・稲生の母校浜松市立江西中学校の同窓生なのです。同窓生と言っても22才くらい離れており、ただそれだけのことで応援しているわけではありません。

芸能人となればWikiでいろいろ調べ上げられておりますが、彼の実家は瓜内町の寿司屋・網代寿司とのことです。

瓜内町は江西地区に属さず、東隣の白脇地区なのですが、瓜内町のうち馬込川西岸は、江西中学校に近いとの理由で、本来の学区の南部中学校ではなく、江西中学校に通うことが可能となっております。

江西中を卒業後は、県立三ヶ日高校に通ったのちに上京して、お笑いの道に歩みを進めていったようですが、この三ヶ日高校に通ったという事実が、私には驚きでしかありません。江西中から三ヶ日高校に通う奴がいたのかと。

三ヶ日高校は、2015・3月に閉校しております。同じ引佐地区の気賀高校・引佐高校と3校が統合されて浜松湖北高校として再出発しております。そして元々三ヶ日高校は、一学年2クラスほどの小規模校だったようです。

疑問なのは、長谷川がどのように三ヶ日高校まで通ったのかということです。

ちょっと調べてみました。瓜内町の自宅から浜松駅・新浜松駅までは2.5㌔ほどですので、チャリで通うとして、①東海道線で新所原駅乗り換えで天浜線にて三ヶ日駅に到着(100分)、②遠鉄電車で西鹿島駅乗り換えで天浜線にて三ヶ日駅に到着(135分)、③浜松駅から遠鉄路線バスにて気賀三ヶ日線にて三ヶ日車庫に到着(125分)、となります。

何もこんなに時間をかけて三ヶ日高校まで通わなくても、高校はたくさんあるのにどうしたものか?三ヶ日高校に何か魅力ある教育や部活などがあり、それを目指したのか?甚だ疑問が残ります。

それでも、三ヶ日高校卒の一番の有名人となってWikiにも記載されていますので、三ヶ日高校OBにとっても自慢の芸能人となっているのは間違いのないことです。

2024年9月14日 (土)

1291.EXITりんたろー。

宮崎・熊本遠征もドタキャンしてしまい、郵便局めぐり関連のネタもないことから、身内の者に縁があるお笑い芸人の話題でもしてみます。

今回は、タイトルに記した若者(といっても38才)は、私の娘の中学校の同級生で知り合いであるとのことで、その方を少し掘り下げてみます。ですので、カテゴリーをとりあえず『映画・テレビ』と『遠州ネタ』の両方に入れておきます。

芸名のりんたろー。は、本名が中島臨太朗なので「りんたろー」としていて、コンビ名「ベイビーギャング」として少し名の出てきたところに、相方の北見何某が無免許運転で逮捕されて、しかも二度目のため北見は所属する吉本興業を解雇され、「りんたろー」は謹慎後の再開時に「りんたろー。」に改名したということらしいです。(この辺はWikiの要約です)

その後はピン芸人として活動後、17.12月に現在のコンビ名「EXIT」として兼近大樹と組んで売れ始め、その後は皆さんご存知の通りテレビ界の中の人になっている方です。

娘とは生徒会役員関連の仲間だったようで、一度我が家に遊びに来たこともあると、娘も妻も証言しております。おそらく、当時の中学校の近くに我が家があったため、たまたまお招きしたものと推察されます。といっても、複数人でのご訪問だったとのことですが・・・

この「りんたろう君」は地頭(じあたま)が良くて、娘曰く地域一番高の北高(※)へ進学するものと思っていたのですが、実際に進んだのは浜松北高校(※浜松市:県立)ではなく、静岡北高校(静岡市:私立)だったのでした。大学は地元の浜松大学(現在は常葉大学浜松キャンパス)に進学していて、Wikiのとおりでプロサッカー選手を目指して奮闘努力をしていたようです。

小学2年から大学4年までサッカーに努力を重ねてプロを目指すも怪我によりこれを挫折しており、単なるそこらのチャラ男ではないようです。その後、お笑いの道に進む決断もどのような理由なのか判りませんが、不確定要素だらけの芸能の世界に足を踏み入れることになり、前述のとおりの相方の不祥事も乗り越え、今の人気お笑い芸人となっていったようです。これは応援したくなりますよね。

地頭の良さもクイズ番組などで披露する機会もあり、豪華マンションに住み、グラビアアイドルの妻をめとり、今は文句なしに成功を収めているようですが、これから先の芸能の世界も大きさも広いし時間も長いのです。これからどうやって成功を続けていくのか、道を外すことは無いのか、地元出身の推しタレントとして、応援していこうかと思っています。

2024年7月17日 (水)

1276.「浜松不思議話」--You Tubeより

最近は、TVをあまり見なくなりました。朝食を摂りながら朝のニュース番組は見るのですが、民放を見ていてもエンタメの時間になると、NHKに替えてしまいます。

最近のアイドルの名前も判りません。男性アイドルは嵐かTOKIOあたりで止まっており、その後の男の子は全てスルーです。女性アイドルはAKBグループなどはみんな同じにしか見えません。

夜はもっぱらナイター視聴または聴取、もしくはYou Tubeの視聴です。

DeNA戦をBSとかでやっていれば見ますし、やっていなければビジターではYou Tubeの「ラジオ風実況」(byあまちゃづるさん)を楽しみます。ホームのハマスタではニコニコ生放送で無料で見れたのですが、少し前からサイバー攻撃により見れなくなっています。

私のパソコンのCDドライブが壊れて使用不可となっており、代わりにYou Tubeでさだまさしやかぐや姫・よしだたくろうなどの音楽を聞いていますが、最近は表題の「浜松不思議話」というチャンネルが突然好きになり、熱心に見ることになりました。

さっそくチャンネル登録をしました。現在の登録者数は3,640人と、控え目な登録者数です。

50代の中年オヤジ二人が、浜松周辺の【実話ミステリー】にこだわって取材し、考察をしていくというローカルなチャンネルです。二人は浜北の方で、一人が発案・下調べ・考察し、もう一人は運転手兼一般的な意見を述べるというものです。

現地取材の際には、浜北から現地に着くまでが車中での雑談モードで、以前のネタのおさらいをしたかと思えば、今回のネタの前振りをしてみたり、時には脱線して関係のない雑談に終始しますが、ゆるーい会話は遠州弁まる出しで、遠州の人間には心地よい時間となってます。

今のところ、関心したのは掛川市の小夜の中山の‘夜泣き石’伝説です。詳細は小夜の中山夜泣き石でググってもらえば良いのですが、遠州の七不思議のひとつとなっています。

子育飴を売っている売店の山を登ったところにある夜泣き石以外に、伝説の元となった久延寺の境内にも夜泣き石があり、これは現地取材で偶然に見つけており、その後の調べで、後者の石は偽物であるらしいということとなったのです。お寺の方が偽物とは面白い話です。

浜北の根堅で発見された人骨は浜北人と言われ、歴史の教科書にも載っていますが、本州最古の人骨らしくて、こちらは地元で誇れる遺跡でした。以前は、三ヶ日人なども旧石器時代の人骨と言われていたのが、その後の鑑定により、だいたいが縄文期のものと判り、浜北人が本州最古の人骨として希少価値を持つことになったようです。

その他、地元の人でも特段関心のない地下道を探索してみたり、中年オヤジが少年のように現地取材をする様は、とても微笑ましいです。

2024年3月23日 (土)

1245.磐信小松支店のこと

本日はローカルネタであります。

磐信とは磐田信用金庫のことであり、磐田市を本店として磐田市・袋井市・森町・浜松市天竜区など中遠・北遠地区を拠点とした信用金庫で、2019年1月に浜松信用金庫と対等合併しました。現在は浜松磐田信用金庫(通称では 浜松いわた信金 と いわた のみひらがな表記)となっております。

我が町・小松には郵便局やJAの他には静岡銀行と遠州信金が支店を持っております。浜松信金の支店は北隣の貴布祢及び南隣の西ヶ崎にあります。

Photo_20240330161901 磐信小松支店が進出したのは、昭和の終わりか平成の始め頃だったかと記憶しております。天竜川の東側を主力基盤とする磐田信金にとって、それまでに浜松南支店(向宿)・浜松北支店(船越)・葵町支店・鴨江支店・浜北支店が天竜川を越えて支店を持っており、人口の多い浜松市域に攻勢をかけているように感じておりました。いずれもすでに同業の浜信・遠信がある中での出店ですので、職員は大変な思いを持って顧客獲得・業務拡大を目指したものと推察いたします。

磐信小松支店は、浜北地区には西美薗に設置した浜北支店に次いで2店舗目であったのですが、当然のことながら、磐信職員は新規口座獲得を目指して、小松地区の各家庭に戸別訪問してきており、我が家では祖母が反応して、孫のための定期積金をとりあえず始めるということで、口座が開かれました。その後、子どものお年玉貯金などでも使用し、彼らが大人になってからは奨学金の返済口座として使ったのですが、私たち夫婦もいつの間にか口座開設して、それなりに利用するに至っております。

それで、浜信との合併後の処理に気に入らないことがありました。

Photo_20240330161902 まず西ヶ崎支店が建物を作り直すということで、小松支店の地に店舗内店舗で入ってきた後に、今度は西ヶ崎・小松支店が西ヶ崎の地に新しく作り直した場所に移転したのですが、小松支店の顧客には、新聞折り込みのチラシだけでの知らせであったのです。小松支店の顧客としては、ハガキの1枚でもいただきたいものです。

「磐信の口座を作る時には大変熱心に家庭訪問していたのに、小松の地を出て行くときには折込チラシ1枚だけなのかよ!怒」と文字通り怒りが湧いて、移転直前の西ヶ崎・小松支店に掛け合うと、支店長が私の自宅まで出向いて回答するも「本部がそのように言ってますので」と、まるで他人事のような返事で終わりました。

そのとき、本部での電話応答の窓口だった職員が、人事異動で西ヶ崎・小松支店に来て私の自宅まで挨拶に来たのですが、なんとその職員は祖母から孫の定期積金を獲得した職員だったのです。彼曰く「昔のお客様に怒られました!」

小松支店で口座獲得に邁進した職員が、立場が違うとはいえ、血の通う移転処理を出来なかったということです。彼は、1年足らずで本部に異動していき出世していったようです。

まあ、そんな個人的なやり取りがあった磐信小松支店のスタートからエンドまでの小ネタでした。

※写真は、上が旧磐信小松支店。現在は住友生命がテナントとして入居している。下が浜松いわた磐田信用金庫西ヶ崎・小松支店。

2024年3月15日 (金)

1243.遠鉄奥山線跡の散策

今月はバイトのオファーがあり、元目町まで遠鉄電車で通勤しております。

昨年1月に本庁に通った時には遠州病院駅での往復でしたが、元目庁舎はそれよりやや北方にあります。そのため、今のところ往路は遠州病院駅ですが、復路は八幡駅まで歩いて乗車しております。そろそろ往復ともに八幡駅乗下車にしてみようかと考えております。

Photo_20240313201201 往路の遠州病院駅からは、遠鉄奥山線跡を進んで元目庁舎に進んでおりますが、このことを秘かに喜んでいるのは私くらいのものです。奥山線という軽便鉄道のことを知らない世代の大人がほとんどだからです。

遠州鉄道奥山線とは、遠鉄浜松駅(現・遠州病院駅)から分岐して三方原台地を北上して、国鉄二俣線(現・天竜浜名湖鉄道)の金指駅を経由して、奥山方広寺のある奥山駅まで、営業キロ25.7㌔の軽便鉄道です。昭和39(1964)年11月に廃止されました。

三方原台地上では、廃止の前後頃から住宅供給地となってきており人口も増えて行ったため、なにゆえに廃止したのかと疑問に思う方もあろうかと思いますが、狭軌(762ミリメートル)のままでは、輸送スピード等の問題があり、1,067ミリメートル幅の狭軌または標準軌(1,435ミリメートル)に設備投資していく必要があったため、廃止の選択をしたようであります。

70代後半の方では、浜松北高校や浜松市立高校への通学で利用した方もいらっしゃることでしょうが、私・稲生は奥山線廃止時の年令は8歳で、浜松駅駅南の下町育ちですので、ほとんど縁がありませんでしたが、一度だけこの奥山線に乗車した思い出があります。

Photo_20240313201401 それは黄金週間(現・ゴールデンウイーク)の時期の浜松まつりにおいて、町内で出している凧揚げ会場行きのバスに何らかの理由で乗り遅れて、当時の凧揚げ会場である和地山公園まで乗車したのです。帰りは町内バスでしたので片道だけでした。稲生少年は小学校1年か2年の時でした。中学生であった6つ年上の兄に連れられてのことです。細かなことは覚えておりませんが、確かに乗車したことに間違いはありません。

元城駅跡にはホテルコンコルド浜松が建っております。狭い面積の駅跡を上手く利用し、南側の浜松城公園を借景としており、したたかな遠鉄らしい経営手法です。

もう少し進むと国道257号をくぐる亀山トンネルがあり、ここから暫くは遊歩道となっております。今でもそうなのかな?北高生と市立(イチリツ)生のカップルが仲睦まじく歩くことができる歩道なのです。

補足しますと、浜松北高校は西遠地区ナンバーワンの進学校で、浜松市立高校は通称イチリツと言って2004年までは女子高でした。

私が昼休みに散歩できたのは、この亀山トンネルまででした。もう少ししたら、浜松城公園の桜が咲きますので、次の機会にはその話題でもさせていただきます。

※写真は、上がホテルコンコルド浜松、下が亀山トンネル。

2023年12月 6日 (水)

1214.来年1.1より浜松市の行政区が7区から3区に再編

来る2024.1.1より、浜松市に7つある行政区が3つに統合されます。

これは、前職の鈴木康友市長の選挙公約でもあり、この再編の目途が付いたということで、退任しております。康友氏は、まだ66歳と若いので、次の県知事選にでも出馬するのではないかと踏んでおります。

7区から3区に統合される経緯については、カテゴリー内の〔遠州ネタ〕にて、何回かに亘って触れておりますので、興味のある方は、そちらを眺めてみてください。

改めて説明すると、中区・東区・西区・南区及び北区の三方原地区は『中央区』、三方原地区を除く北区と浜北区は『浜名区』、天竜区は区域と名称の変化なしの『天竜区』となり計3区となります。

Photo_20231203023901 左の表の色塗りのとおりのカラーがそれぞれの区のシンボルカラーになったようです。これからは、水色とオレンジ色と緑色がそれぞれの区に当てはめて使われるようです。

『中央区』は面積268.45㎢人口608,145人、『浜名区』は面積345.77㎢人口155,996人、『天竜区』は面積943.84㎢人口25,681人となり、面積比では『中央区』17%『浜名区』22%『天竜区』61%であり、人口比では『中央区』77%『浜名区』20%『天竜区』3%と、極めていびつな政令指定都市の区割りとなってしまいました。

浜松市の都市部には都市的機能及び先端技術産業が集積し、平野部には都市近郊農業があり、沿岸部は水産資源に恵まれており、中山間地域は広大な森林を有しており、それゆえ浜松市は国土縮図型都市であると、何かの本に記載がありました。

まあ、分かり易く言えば商工農林水産なんでも有りの町ということでしょうか。

ここで、ひとつ問題点があります。それは、施行日が1.1であるということです。そうです、年賀状の住所は新区名で受け取るのが正しいと言うことです。

A区が『中央区』B区が『浜名区』に決まったのが昨年の11月です。少なくとも浜松市民には認知されていることでしょうが、何しろ新区名を書き慣れておりません。ですので、『東区』『西区』『浜北区』などと、これまでの区名を書いて投函するうっかり者もいることでしょう。

それよりも、受け取る年賀状にどれだけ正しい区名を書かれていることでしょうか?一応、私の今年(2023)の年賀状には、〈2024.1.1より『浜名区』になる予定です〉と添え書きをしておいたのですが、人数分をまとめて作成する昨今では、どれだけの個人が住所表記対応をできていることか、心配ではあります。いや、むしろ何%の正答が得られるのか、楽しみでもあります。

2023年5月23日 (火)

1163.真・三方ヶ原の戦い

大河ドラマ『どうする家康』の第18回は、‘真・三方ヶ原の戦い’でした。

徳川家康の一生を大河ドラマに仕立てた『どうする家康』は、岡崎・浜松・静岡の3都市がご当地として賑わっているのですが、5/5の家康公騎馬武者行列の記憶も新たな5/7と5/14の2回は、三方ヶ原の戦いをテーマとした回で、地元・浜松が話の舞台となりました。

三方ヶ原の戦いとは、家康の三大危機の一つです。三大危機とは‘三河一向一揆’‘三方ヶ原の戦い’‘伊賀越え’なのですが、いずれも、一歩間違えば、家康は消し去られるか、勢力をそぎ落とされるかの危機で、その後に江戸幕府を開いて260年の長きにわたる安定政権を築き上げることは出来ていなかったと言われるほどの危機でありました。

‘三方ヶ原の戦い’は、徳川家康が結んでいた武田信玄との同盟関係が破棄され、信玄が駿河国・遠江国に侵攻してくるのですが、家康の居城・浜松城を前にして、素通りする動きを見せたため、まだ31歳の若き家康は、城への籠城作戦を変更し三方ヶ原へ戦いを挑むことにしました。

Photo_20230522165301 ところが、多勢に無勢、武田軍22,000に対し、徳川軍は織田援軍を含め8,000(諸説あり)、なすすべもなく徳川軍は敗走したのでした。

織田援軍の平手汎秀や徳川軍の本多忠真・夏目吉信など、多くの武将が戦死したのですが、とりわけ家康の身代わりとなった夏目吉信(広次)(演:甲本雅裕)については、ドラマの中では、家康の幼少期の人質時代や三河一向一揆で一向宗側に付いたのち許されたこと、など長い尺を使って演出されていました。

5/5の騎馬武者行列にも、参加しておりました。ここ浜松が夏目吉信の死に場所だったのですね。

と言うわけで、5/14の放映後、1日明けた5/16に鹿谷町の‘犀ケ崖資料館’に行ってきました。場所は姫街道(国道257号)浜松布橋郵便局のすぐ南です。入場無料で毎週月曜日は休館ですので、放映後最初の営業日の朝に早速訪問した次第です。

‘犀ケ崖資料館’は、場所こそ承知していましたが、何故か素通りしてばかりいて、今回が初めての訪問でした。70代前半と思われるボランティアガイドさんが、三方ヶ原合戦のジオラマを前に、大変熱心に説明してくれて、こちらは2日前に‘真・三方ヶ原の戦い’を観たばかりなので、興味は尽きることなく、三方ヶ原の戦いをそれなりに深掘りできました。

その後、根洗町にある市営三方原墓園の脇にある「三方ヶ原古戦場碑」および都田川沿いにある井伊直親の墓に立ち寄ってきました。

※写真は、三方ヶ原古戦場碑。三方ヶ原の戦いは、場所が特定されておらず、広い三方原台地の上で戦いがあったというだけのこと。言うなれば、桶狭間の戦いにおける古戦場碑と同様、どこに建立しても間違いではない。

2023年5月 8日 (月)

1159.家康公騎馬武者行列

GWの最中の5/5の子どもの日に、地元浜松市では『家康公騎馬武者行列@浜松まつり』というビックイベントがありました。

大河ドラマ「どうする家康」主演の松本潤さんほかの役者が、浜松市の鍛冶町通り&広小路通りをパレードするというもの。

TVニュースなどで報じていましたので、ご存知の方も多いかと思います。(NHK記事は こちら 削除されています。)

このビックイベントを観覧してきましたので、ご報告いたします。

妻の指示により、この催しに応募したのが4月上旬。20,000人が当選するとのこと(後に、増員があり22,000人が当選)。(応募のきまりでは、二人一組で応募)

どうせ当たることはないと、たかをくくっていましたが、抽選発表が4/27にあり、なんと当選してしまい、予期せぬ事態になりました。

妻の会社の人は妻以外全員外れるという、なかなかの倍率(倍率は非公表)だったようですが、稲生家では、娘が嵐ファンの友人とともに当選しており、稲生家のGWは、これの準備でにわかに忙しくなりました。

Photo_20230507153101 準備といっても、折り畳み椅子を購入しておくくらいのもので、あとは当日のスケジュールをどうするかという程度の準備でした。

結局、娘チームは遠鉄小松駅を9時半ごろの電車で、我ら夫婦チームは11時の電車で、観覧場所へ いざ出陣したのでした。もちろん、乗車前にコンビニで昼食を調達した上で。

受付開始は12:00で、当選したそれぞれの観覧エリア毎に行列を作って待ちました。ここで、さっそく折りたたみ椅子が役に立ちました。待つこと30分(娘チームは2時間くらい?)チケットと本人確認・手荷物検査を経て、32箇所に分けられた観覧エリアに入場です。

22,000を32で割ればわかるのですが、1箇所の観覧エリアには700人前後が詰め込まれるのです。前から5列目ぐらいを確保して、鍛冶町通りの歩道上で2時間ほど待ったところで、定刻の14時にイベントは始まりました。

イベントが始まると、全員が立ち上がって前列に殺到し、立ち遅れた我ら夫婦の場所からは、大事なイベントはほとんど見ることができません。かろうじて、折りたたみ椅子の上に乗って撮影したのが、添付の写真でした。

現地到着後、さんざん待った挙句、肝心なイベントは音だけが聞こえる程度で、これなら自宅でライブ映像を「ゴゴスマ」で見た方が良かったとの感想になりました。(「ゴゴスマ」では、2時半過ぎの能登半島地震で中継がストップしていたとのこと)

早くに行って前列を確保できた娘チームは、ある程度、松潤はじめの面々を観覧できたようです。

ともかく、GWの一大イベントは、現地に行っていたという事実だけは間違いなくあり、なんとか無事に(?)終了したのでした。

※写真は、我ら夫婦チーム撮影のもの。松潤ど~こだ!(笑)  娘チームは、しっかり撮影できてます。こちら

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