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実録シリーズ

2026年2月 4日 (水)

1428.実録・仲間たちが減っていくシビアなお話し

ライター稲生は、沖縄にいます。ですので繋ぎの記事ですが、少々シビアな話題です。心してお読み下さい。

去る1.25に、一つの葬式がありました。最近の当地の葬儀は、一般弔問者は通夜に参列して、告別式は身内・親戚で行なうのが一般的になっており、私も1.24の通夜に参列してきました。

60歳女性、死因は大動脈解離ということでした。私の腎臓移植仲間です。

浜松医大病院で、私と同じ時期に腎臓移植をした患者は、皆元気になって患者仲間として、交流が続いていました。特に、退院して1年から数年は交流が盛んでした。

Photo_20260131104501 平成元(1989)年の前後の時期は、浜松医大病院の泌尿器科は腎臓移植が盛んでした。教授・助教授にその道の権威ある人材がそろい、頻繁に腎臓移植が行われてきました。中には、アメリカから空輸で運ばれた腎臓を移植した方もおられました。

冒頭の彼女は、私より9歳下の可愛い女性でした。私が腎臓移植したのが33歳でしたので、その頃の彼女は24歳だったのです。地元の信用金庫に勤めており、通夜の際も弔問客がたくさん押し寄せていました。

身長も150㎝くらいで小柄な方で体重も多くなく、腎臓の使用具合から言えば、私より具合よく過ごしていたと思っていたのですが、私より早く突然、亡くなってしまいました。

大動脈瘤の破裂は、本当に怖いものです。一発で命が終了してしまうのですから。果たして彼女は、自分の身体に大動脈瘤があったのを知っていたのかどうか?上半身のCT検査をすれば発見できるのですが、それをしていたのかどうか?本人が死去しており、それを知る良しもありませんが、腎臓移植者には、上半身のCT検査を義務付けてほしいものです。今度の泌尿器科受診の際に、私の主治医に提案してみることにします。(ブログNO.1349を参照してください。)

他にも、ここ2.3年で3名の仲間が亡くなられました。

患者仲間で、その後も年賀状のやり取りをしていたのは、8名ほどいましたが、そのうち4名が亡くなってしまったのです。私もいつ死亡するかわかりません。このブログが、ストップしたままでしたら、生死不明となっていると考えておいてください。

皆様も、ご自身のお身体には充分にお気をつけください。

2025年5月 2日 (金)

1349.実録・大動脈瘤はあるかもしれない

大動脈瘤についてのお話しの続きです。

この大動脈瘤は、破裂すればおしまいという恐ろしいものですが、この病変は、普段は全くの無症状で、通常の生活を謳歌することができます。

私は、たまたまCT検査により見つかったもので、その疑いがあるからCT検査をしたのではなく、全身のチェックをかけたところ大動脈瘤があることを見つけたものです。

Photo_20250428123701 あれは確か二本目の股関節手術を実施した時でした。13年前の東日本大震災の起こる直前の時期でした。左足の方でしたが、当初の一本目の右足手術から3年後に実施した二本目の手術は、二本目ということで気が緩んでいて、当時の最短記録である10日間で退院した直後に、湯船に浸かってしまい、手術した傷口から菌が入ってしまい痛みを生じさせ、僅か1週間で再入院をする羽目になったのです。シャワーで済ませば良かったのでしょうが、折しも1月の寒い時期だったため、温まりたいと言う欲求があり、ミスをしてしまいました。

それで、再入院して一日4回の点滴治療を繰り返して、菌を排出したのですが、移植した腎臓を悪くしないように、比較的弱い薬で処置したため、正常値に戻すまでに1ヶ月半という長期の期間がかかってしまいました。

一日4回の点滴治療はベッドに寝て静養して、1回1時間足らずで終わるため、あとは暇な時間が続きました。リハビリの時間があり、そこで1時間ぐらいかかりますが、それ以外は暇を持て余していました。病棟・外来棟を歩きまわったり、昼食時や夕食時は誰よりも早く食堂に出向き、食べ終わるため、食堂のおばちゃんから、あなたはどこが悪いのですか?と言われてしまうほどです。

当時の朝ドラ「てっぱん」(ヒロイン:瀧本美織)などは、一日4回は観ていました。すなわち、朝も昼もBSと地上波で視聴しており、さらには土曜日に1週間分をまとめて放映したものも観ており、それも入れると5回です。ただし、3/11に例の東日本大震災があり、その後は「てっぱん」どころではなくなり、最後まで楽しめませんでした。

そういった暇対策として、全身のメンテナンス検査を主治医に依頼した中の一つとして、上半身のCT検査があり、それにより胸部大動脈瘤を見つけられてしまったのです。

私の実録が長くなってしまいましたが、大動脈瘤というのは、見つけていないだけで普通の人も持っているかもしれない病変なのです。司馬遼太郎も藤田まことも、カラータイマー=大動脈瘤を持っているという自覚が無く、突然大動脈瘤が破裂して死に至ったのかもしれません。

CT検査というのは、何らかの必然的な理由がなければ検査してくれませんが、消化器系や肺の検査とかがあれば、大動脈の方も調べてもらうと良いと思います。経験者からのアドバイスであります。

※写真は、朝ドラ「てっぱん」。『実録シリーズ』に、なんらかの写真・イラストを添付しておきました。

2025年4月28日 (月)

1348.実録・大動脈瘤のその後

4/23に医大血管心臓外科の外来受診をしてきました。大動脈瘤の具合を確認するためです。

NO.1262で告白したとおりですが、この度の受診の1週間前にCT検査にて、現在の瘤の直径を計測したところ45㍉ということで、手術か否かについては、今回も保留ということになりました。

またまた1年後の受診まで執行猶予ということです。

今回外来で診てくれたのは女医さんでした。心臓外科医で女医さんは珍しいと思いました。ドラマの中で女医の外科医と言えば‘私、失敗しないので’の名セリフが有名な大門未知子(演:米倉涼子)を連想させますが、そんな感じの方ではなく、面倒見の良い近所のおばさんのような方でした。

Photo_20250425145301 今回、私の今の状態と手術するとしたらどういうやり方があるのか、理路整然と説明してくれました。

大動脈瘤は破裂したらおしまいなのですが、手術するリスクも大いにあるため、私の年齢・健康状態などを加味して、今すぐに手術する方が良いのか、もう少し先延ばしをして様子見にしても大丈夫なのかを説明してくれました。

患者側は、今は保留とするという医者の見立てを信じるしかありません。まあ、放置して破裂しても医者は責任をとってくれませんが・・・

術式は、基本は開胸手術です。胸部大動脈瘤ですので、‘開腹手術’ではなく‘開胸手術’です。人工心肺装置を使用するほどの大きな手術のようです。

ステンドグラフトを使った足の付け根の血管からカテーテルを通して人工血管を取り付ける方法は、開胸・開腹することがなく患者の負担が小さいのですが、瘤を完全に取り除いていないため、手術後の経過観察が必要で、瘤が再び大きくなれば再手術が必要になるなど、前述の開胸手術による根治手術と異なっているようです。

私の知り合いにステンドグラフト治療をした方がいるので、今度詳しく聞いてみようかと思っています。それから、せっかくブログとして公開したのですから、閲覧者さまからのお声も頂戴してみようかと思います。

参考になる情報がある方は、是非ともお知らせください。ブログのコメント欄の使用ではなく、メールでも結構です。よろしくお願いいたします。

2025年3月13日 (木)

1340.実録・某女子大替え玉受験事件

卒業シーズンになりました。そして、入学の準備の季節でもあります。

私の浜松N高の卒業式は3.1で、3.3からの国立1期校入試の直前だったため、卒業式は上の空でほとんど覚えておりません。翌日には、入試会場へ乗り込んで行かなくてはならないのですから。まあ50年前の話ですけど。

でも、同級生の一部生徒は、驚くべき事件をその卒業式で知ることになりました。津○塾大学女装父親替え玉事件です。

事件の概要は、ネット記事に出ております。  2014.1.19のポストセブン もっと詳しい記事

この前代未聞の大事件は、私の卒業式よりも前に起きていたのですが、幸いにも当時の私の耳には入って来ず、私がこれを知ったのは、事件から20年後のことでした。久しぶりに会った同級生(事件の主では無い方)からこの事件を知ったのです。自分の人生がかかった大事な入試の直前に知らなくてよかったのかもしれません。

Photo_20250428152201 事件の主となる同級生だった彼女は、確か2年次に同じクラスでした。このクラスはいわゆる‘できるクラス’です。ボソッとした感じでしたが、やや大柄だったかな?と言った印象です。

対する犯人となった父親はN高の英語教師でした。幸いにも直接教わってはいませんが、小柄でハゲ頭で、例えて言うならネズミ男のような風貌です。どうみてもオッサンにしか見えません。でも、背格好は娘と同じくらいだったかと思います。

事件は隣の受験生が、この人は男ではないか?と監督官に申し出て発覚したようです。女子大受験ですから、そりゃバレますよね。でも、よく考えてみると、共学の大学であったら隣の受験生も違和感がないまま終わっており、無事に替え玉受験が成就したのではないか。いや、実際に共学の大学もバレずに受験していたのかも知れません。ここでバレなかったのに気を良くして、津○塾の入試に臨んだのかも?

記事にもありますが、娘本人が受験しても、実力で合格を勝ち取ることができたかと推察できます。受験前に娘が弱音を吐いて、それを気の毒に思い、父親が助けて上げようとしたのかも知れません。

たまたま父親が高校教師だったため、その年齢になってもある程度の学力(受験技術)を持っており、娘の苦境を助けようと人肌脱いだ親心が仇になったと言うことでしょうか。

卒業名簿には娘の氏名のみ掲載されており、他の情報は空欄です。その親子は行方知らずです。

記事タイトルを某女子大とし、文中も浜松N高とぼかしてみましたが、‘N高ガチャ’などと散々書き散らしておりますので、我が母校の事件であったことは間違いないです。N高100周年記念誌にも決して乗ることの無い、黒歴史をお披露目してみました。

2024年12月20日 (金)

1317.体重の増減、平均歩数・合計歩数

今回は自身の体重の話題です。

40代・50代の中年期には、58~64㌔程度で中肉中背(身長は約168㎝)を維持しておりましたが、60代に入って右肩上がりに上がり続けてしまいました。

60歳で68㌔・62歳時には70㌔、65歳では何と75㌔まで増大してしまったのです。これは、60歳で定年を迎えたのちに作業量・運動量が減ってしまい、62歳から3年間は無職の生活を謳歌しており、たまに趣味の郵便局まわりに精を出す程度の日々だったことに一因があるようです。

65歳になってからは、アルバイトに励む月も出て来て、オフには散歩(ウォーキングでは無い)も心掛けていて、マックス75㌔だった体重は、じわりじわりではあるものの68~70㌔あたりまで抑えることができて来ました。

2024_20241215195401 しかし、そこからは横ばいの状態で推移していました。筋力トレーニングなどはしないし、ただ食欲を抑えるだけのダイエットですから、まあこんなものでしょう。

そんなところだったのですが、今年は劇的なる体重の減少を経験しております。左の表のとおりですが、9月前半に帯状疱疹を患い、その後夏バテのような状態で9月一杯を過ごしたため、9月の体重がガクンと落ち込んだのです。

9月の底は64㌔だったのですが、10月以降は順調に回復してきて67㌔まで持ってくることとなりました。現在の年齢における私のベスト体重は67㌔としておくことにしておきましょう。

おだやかな体重の減少は良いのですが、激ヤセは良くありません。癌などの病変を疑う必要があります。ですので、この67㌔程度が現在の私には適正な体重であるとしておくことにいたします。

次に平均歩数・合計歩数のお話しです。

以前のブログ・はままつ健幸クラブ(NO.1187)で歩数計アプリの紹介をしましたが、この『はままつ健幸クラブ』に加えて、ドコモの『dヘルスケア』及び楽天の『楽天ヘルスケア』の3つのアプリで毎日の歩数を測っております。

昨年3月からの統計が出ているのですが、最近の歩数が明らかに減っているのがわかりました。

2023.3月~12月 平均歩数 7,286歩 合計歩数(1ヶ月あたり) 216,461歩 体重平均 70.3㌔

2024.1月~11月 平均歩数 6,025歩 合計歩数(1ヶ月あたり) 183,546歩 体重平均 68.0㌔

本年の方が明らかに歩数が減っております。言い訳をするとしたら、6月ごろから8月までは我が家の工場部分にあったごみなどの処理に忙しく外に出ての散歩が出来なかったことと、9月の身体の異変により静養したことが挙げられます。

もう一つの言い訳として、他の方よりも歩数が絶対的に少ないのですが、両足が人工股関節であるので、この人口関節はある意味消耗品であり、‘たくさん歩いてはいけない’のです。これは、とても難しい問題であります。これからも‘ほどほどに’歩いて健康を維持するしかないということであります。

2024年8月21日 (水)

1285.実録・帯状疱疹、‘走馬灯’と‘お花畑’

まだまだ病気の話ですいません。得意の郵便局めぐりが休止中のため、それらに関する話題が特段ないため、もう少しお付き合い願います。

前回、インフルエンザで入院治療した話をしましたが、よく思い出したところ、帯状疱疹でも入院していました。確か腎臓移植をして7年くらいたったころでした。まだ40歳になる前だったと記憶しています。

腎臓移植後は、時間を経るにしたがって警戒を緩めてきました。最初の頃は電車通勤の際にマスクを着用して流行性感冒に気を付けていましたが、1年経過した頃にマスク着用を解除したり、2.3年すると仕事終わりの麻雀も復活して、日付が変わってから帰宅したりと、十分に普通の生活ができていました。

そんな矢先に帯状疱疹にかかってしまったのです。1週間ほどの入院治療で治癒に至ったのですが、その時の心情はとっても残念で落ち込んだものでした。高齢者などに多く罹る帯状疱疹となってしまい、やっぱり俺は病人なんだと。その後は、無理は禁物というワードを手にして、通常の生活を刻むように心掛けたものです。

Photo_20250428154901 ですので、それ以降はインフルエンザも帯状疱疹にも罹患しておりません。でも今は高齢者となり、前述のものに加え新型コロナなど、それらにかかれば回復はかなり遅れるということを肝に銘じて行動をすることにしています。

次に、‘走馬灯’と‘お花畑’についてです。この二つとも私は経験しているのです。

腎臓に関する最初の手術を29歳の頃にした(NO.1282参照)のですが、この時に‘走馬灯’をみたのです。幼き頃から小学校・中学校・高校・大学そして社会人・結婚・家族と、それぞれが動画で出現し、次々とスライドショーとなって進んで行きました。

手術が終わって覚醒したときに、これが‘走馬灯’というものなんだなと、感心したものです。

でも、不思議なものですが、次の大きな手術・腎臓移植手術や50代の2度にわたる人工股関節手術では、‘走馬灯’は出現しませんでした。命に係わる危機だと身体が認識しなかったからなのでしょうか?

最後に‘お花畑’についてです。これは腎臓移植後3年ほど経過した日に経験しました。

妻と小学校低学年の長男・幼稚園の長女の4人で、休日に静岡方面の旅行をしたのですが、私の母校・静岡大学を見せて上げたいと大学に向かい、一番大きなB301教室を見学した頃から、私は下痢気味となり、トイレで用を足したのちに、芝生に突っ伏して気を失ったようです。

この時の私の脳内は綺麗な‘お花畑’が展開していて、ずっとこうしていたいと思ったのですが、遠くから妻が「パパ起きて!パパしっかりして!」との声が聞こえて来て、我に返ったのです。

私の身体に危機が迫っていたのかもしれませんが、私の脳内では、とっても気持ちの良い時間であったのです。妻が近くにいたから、この世に引き戻してくれたのかもしれません。

その後は、皆さんご存知のように、単独行動を主として日本全国を回っておりますが、気を失ったことはなく過ごしております。

 

2024年8月17日 (土)

1284.実録・腎臓移植・part2

私が腎臓移植を受けてから、この11月で35年が経過することになります。

33歳までが自前のポンコツ腎臓でしたが、その後は実母の腎臓を使ってそれ以上の年月を過ごして来たことになります。満33年が経過した一昨年の11.15には、感慨深いものが人知れずこみあげてきたものです。

大正14年生まれの腎臓で、平成・令和の世を生き抜いてきたのです。まずは今年99歳となった実母に、丈夫な腎臓をいただいたことに感謝いたします。そして、未だに週5回でカーブスに通って健康に暮らしている実母には、もっと長生きをして欲しいものと切望しています。

ところで私の血液型はA型です。そしてドナーの実母はO型です。これは、確信を持って言えることですが、腎臓を貰ってからは私の性格が変わりました。元来のくよくよとした神経質な性格は無くなり、ある意味大雑把な性格になっているのです。これは腎臓移植によるものであることに間違いありません。

2_20250428154301 ちょっと戻って、免疫抑制剤の服用について、お話ししてみます。

腎臓移植手術によって、私の体内に収まった母親の腎臓なのですが、人体には自分のものではない物を‘異物’として排除すべく攻撃する免疫作用があります。たとえ肉親の腎臓であっても自分のものではないので‘異物’です。一卵性の双子からの移植以外は、残念ながら‘異物’として免疫攻撃が実行されてしまうのです。

そのため免疫抑制剤を服用するのです。移植直後では、色んな種類の免疫抑制剤を服用して、貰った大切な腎臓を守ります。その後は、次第に少なくなっていくのですが、これは貰った腎臓が自分の身体の中で生着したということかと思います。植物の接ぎ木と同様なのかと考えています。

ですから移植直後は免疫抑制剤の副作用が色々と出てきました。まずはムーンフェイスです。顔が満月のように丸くなるのです。そして私の場合は、もち肌だった皮膚に吹き出物がたくさん出てきました。今はその吹き出物の痕跡で顔中ブツブツのブサメンとなっています。でも、これは、クオリティオブライフの代償であるので、まあ仕方のないことです。幸いにも既婚者ですので、顔はついていれば良しとしましょう。

あとは、免疫抑制剤を服用しているため、インフルエンザとか新型コロナなどに罹患すると、回復が遅くなります。ですから、他所様以上にかからないように気を使います。幸いにも新型コロナには未だ罹患したことがありませんが、インフルエンザには1度かかったことがあります。

娘が中学生の時ですから25年ぐらい前のことです。娘からの貰い物でした。娘は一日休んだだけで回復しましたが、私は1週間入院しました。点滴による治療で時間をかけて治していったのです。

このように、打たれ弱いということを実感しておりますが、その後25年は股関節治療以外は入院しておりませんので、普段は健常者並みに丈夫であると自らを誤解して過ごしております。

 

2024年8月13日 (火)

1283.実録・腎臓移植・part1

前の記事の続きです。

慢性腎炎から慢性腎不全に至った私が生き残っていくためには、透析治療しかありません。基本的に透析治療に入れば、週3回、一回に4時間かけて汚れた血液を濾過して、それを身体に戻すという透析治療を繰り返して生きながらえることになります。

腎臓病の状態を測る指標として、血中のクレアチニンの値があります。正常値は男性が0.6~1.2、女性が0.4~1.0(mg/dl)ですが、腎臓が悪いとその値がどんどん大きくなっていきます。このクレアチニン値とは、分かり易く言えば血液中のゴミの量を測っているものです。

この血中クレアチニン値が8となれば、尿毒症であり、放置すれば死を待つのみですが、その前の7ぐらいになっていくと生きながらえるための透析治療を行ないます。7ぐらいの値で透析治療を済ますと5ぐらいになるようです。

透析治療というのは、24時間365日やっていれば正常値の1.2に限りなく近づくのでしょうが、これでは常に管に繋がれているばかりですので、週3回一回4時間の透析治療をして、それ以外の時間はシャバに出て活動することができるというもので、患者本人のクオリティオブライフを高めるのですが、その実態は苦しいながらも何とか細々と生活ができるというものです。

1_20250428153701 この透析治療の上を行くのが腎臓移植です。私の場合は、これを強く望みました。そうは言っても、腎臓の提供者(ドナー)が必要なので、そう簡単に腎臓移植が出来るものではありません。

私のドナーは実母です。33歳直前で移植手術をしたのですが、その時の実母の年齢は64歳でした。私は今67歳なのですが、今の年齢になって考えると、実母はよく提供してくれたものだと頭が下がる思いです。

当時の私は妻と二人の幼子がいました。我が子を無事に成人させるためには、この起死回生とも言われる腎臓移植をするしかないと、病身ながら腎臓移植について勉強をしていました。本を読んで勉強するのは勿論、腎臓移植者の集いにも参加して、その方々の意見を聞いてみたりしました。

その結果、透析治療を始めて4ヶ月後に腎臓移植手術をしたのです。1989(平成元年)11.15でした。二週間後が満33歳の誕生日でした。

これにより私のクレアチニン値は1.4に改善しました。34年経った今でも1.4から1.6ぐらいです。正常値の男性上限1.2よりも若干劣るだけの値です。

腎臓移植をすれば手放しで健常者となるわけではありません。貰った腎臓をダメにしないために、免疫抑制剤などをサボらずに飲み続ける必要があるし、その免疫抑制剤などの副作用にも対処しなくてはならないなど、未だに腎臓病患者であることは間違いないのですが、郵便局めぐりのために何泊もして趣味に励むなど、クオリティオブライフは格段に上がっていることも間違いのないことであります。

2024年8月 9日 (金)

1282.実録・慢性腎臓病

主要テーマである郵便局めぐりは家庭の事情もあり、9月までありません。そこで実録シリーズとして、自分の病気のことを晒すことにいたします。

今回は結構シビアであり、かつ赤裸々な告白です。

50代になってから顕在化した変形性股関節症については、NO.1273NO.1274で告白しておりますが、私・稲生はもっと本質的な疾患を持っているのです。

それは腎臓病です。おそらく中学生の時に急性腎臓病になっていたようです。扁桃腺を腫らしては熱を出しておりました。これについて、休んで睡眠をとれば回復することを繰り返していたのですが、しっかりとした治療を受けずにいたのが間違いの元だったようです。

Photo_20250428153301 高校に入ってからは慢性化してしまい慢性腎臓病となっておりました。でも、専門病院に行くことは無く、近所の町医者で薬を処方されて、それを飲んで良しにしていました。相変わらず、扁桃腺を腫らし熱を出してぐったりすることを繰り返していましたが、休むのは一日か二日で長患いにはならなかったので、それを甘く見ていたのです。

大学入試を何とか現役で受かって、学生生活を送ったのですが、ここでも扁桃腺を腫らして熱を出してぐったりすることを繰り返しておりましたが、病気持ちながら若さが優先して、それなりに楽しい学生生活を送っておりました。

今ならまず不採用となることでしょうが、慢性腎炎を申告したうえで地元の鉄道会社に就職できましたが、病気の方は相変わらずで慢性腎臓病は次第に進行していき慢性腎炎から慢性腎不全となっていきました。

28歳ぐらいの時でしたでしょうか、突然血尿が出てしまい、本格的な病院にかかることになりました。地元の浜松医科大学付属病院(正式名称:浜松医科大学医学部附属病院、通称:医大病院)を受診しました。これが、私と医大病院の長い付き合いの‘はじめの一歩’でありました。

腎臓内科にかかり、しばらく通院治療をしていましたが、そのうちに腎臓内に腫瘍のようなものがあるようだが、外科的手術をして‘もの’をとってみないと悪性か良性か判らないとなり、泌尿器科に転科して手術をしました。幼少期に、股関節脱臼による手術もあったのですが、これは本人の記憶にない中での手術でしたので、大人になってからは初の手術でありました。

たしか29歳の時でした。6時間に及ぶ長い手術でしたが、結果は良性の嚢胞(シスト)であったということで、その部分を削っただけで終わった手術でした。

その後は、経過観察ということで推移しておりましたが、慢性腎炎そして慢性腎不全は、ここで留まってくれる病気ではありません。病気は進行してどんどん悪化していきました。頭痛となるのは毎度のことで、扁桃腺は腫れるは、熱は出るは、で明らかに病気と闘っている状態になりました。

33歳で起死回生の手術をするのですが、これ以降現在に至るまでのお話しは、次のエントリーで展開していくことにいたします。

 

2024年7月 9日 (火)

1274.実録・変形性股関節症-その2-

続きです。この手術というのは、人工関節置換術のことです。

変形性股関節症では、上の骨と下の骨(骨盤側)の間にある軟骨がすり減って痛みを生じるもので、移動をするために歩くと痛むため、まさに‘歩きたくない’状態となっており、それを脱するための起死回生の手術です。

股関節周りの上の骨も下の骨も切り取ってしまい、チタン製の人工股関節に取り換えるもので、私が手術した15年ほど前でも月に3・4件はある、まあまあポピュラーな手術でした

現在では、もっとポピュラーになっているかもしれません。千原ジュニア・前川清・舛添要一などの有名人も施術済みのようです。

さて、手術後はどうなるのか?といえば、まずは痛みはゼロとなります。手術前には関節の軟骨がすり減って痛くて仕方がないところを、神経の無い人工物にしたのですから当然です。痛くも痒くもないのです。

Photo_20250428153001 その前に、リハビリが必要ですが、50代前半で受けた私の場合は、それほど大変ではありませんでした。歩くと痛くてたまらない状態を脱して、歩いても何しても不快であることが無くなったのですから。

それでも、健常者と比べると歩行に慎重になっており、駅の階段などでは必ず手すりにつかまります。躓いたり転んだりして、せっかく施術した人工股関節をダメにしてはいけないからです。歩行速度もゆっくりです。現在の速度は、健常者の8掛けくらいといったところでしょうか。

杖を突いて歩くと、だいぶカバーされます。私の場合、1本目の右足を手術しても左足がやや痛むため、それをカバーするために局メグ時には杖を使いました。ちょうど東京23区内や大阪市内などで徒歩にて局メグをした時期だったのですが、局メグ優先ということで、杖を付いて実施しました。一日20,000歩ぐらいになった日もありましたが、翌日に足が痛むとかは無くて、いわば順調でした。

今はほとんど杖を使っていません。使うのは、区役所で諸手続きをする際に、カモフラージュ的に使うぐらいです。一応、マイカーの助手席側に杖を備えてあります。

そもそも、どうして変形性股関節症になったのかと言えば、幼少期に股関節脱臼をしてしまっていたからのようです。今は乳児期のまだ歩行する前に股関節検査をするのですが、私の頃はそれが無い頃で、歩行し始めてから歩き方が少しおかしいと気が付き、地元の整形外科で処置をしたとのことです。

ギブスを付けていた時期があったことは、かすかな記憶があります。それで完治して通常の歩行になったのですが、歩行する前に脱臼を直していなくて歩行してからとなってしまったため、それが健全な股関節形成の妨げになったのかと、私は考えております。

私は男ばかり3人兄弟の三番目、すなわち三男でしたので、両親も子育てに油断があったのでしょう。今は決して両親を攻めることはしませんが、いい加減な親だったと嘆く時もありました。

今が良ければすべて良し。ということで、現在はそれなりにクオリティオブライフを送ることができております。

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