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実録シリーズ

2024年8月21日 (水)

1285.実録・帯状疱疹、‘走馬灯’と‘お花畑’

まだまだ病気の話ですいません。得意の郵便局めぐりが休止中のため、それらに関する話題が特段ないため、もう少しお付き合い願います。

前回、インフルエンザで入院治療した話をしましたが、よく思い出したところ、帯状疱疹でも入院していました。確か腎臓移植をして7年くらいたったころでした。まだ40歳になる前だったと記憶しています。

腎臓移植後は、時間を経るにしたがって警戒を緩めてきました。最初の頃は電車通勤の際にマスクを着用して流行性感冒に気を付けていましたが、1年経過した頃にマスク着用を解除したり、2.3年すると仕事終わりの麻雀も復活して、日付の変わってから帰宅したりと、十分に普通の生活ができていました。

そんな矢先に帯状疱疹にかかってしまったのです。1週間ほどの入院治療で治癒に至ったのですが、その時の心情はとっても残念で落ち込んだものでした。高齢者などに多く罹る帯状疱疹となってしまい、やっぱり俺は病人なんだと。その後は、無理は禁物というワードを手にして、通常の生活を刻むように心掛けたものです。

ですので、それ以降はインフルエンザも帯状疱疹にも罹患しておりません。でも今は高齢者となり、前述のものに加え新型コロナなど、それらにかかれば回復はかなり遅れるということを肝に銘じて行動をすることにしています。

次に、‘走馬灯’と‘お花畑’についてです。この二つとも私は経験しているのです。

腎臓に関する最初の手術を29歳の頃にした(NO.1282参照)のですが、この時に‘走馬灯’をみたのです。幼き頃から小学校・中学校・高校・大学そして社会人・結婚・家族と、それぞれが動画で出現し、次々とスライドショーとなって進んで行きました。

手術が終わって覚醒したときに、これが‘走馬灯’というものなんだなと、感心したものです。

でも、不思議なものですが、次の大きな手術・腎臓移植手術や50代の2度にわたる人工股関節手術では、‘走馬灯’は出現しませんでした。命に係わる危機だと身体が認識しなかったからなのでしょうか?

最後に‘お花畑’についてです。これは腎臓移植後3年ほど経過した日に経験しました。

妻と小学校低学年の長男・幼稚園の長女の4人で、休日に静岡方面の旅行をしたのですが、私の母校・静岡大学を見せて上げたいと大学に向かい、一番大きなB301教室を見学した頃から、私は下痢気味となり、トイレで用を足したのちに、芝生に突っ伏して気を失ったようです。

この時の私の脳内は綺麗な‘お花畑’が展開していて、ずっとこうしていたいと思ったのですが、遠くから妻が「パパ起きて!パパしっかりして!」との声が聞こえて来て、我に返ったのです。

私の身体に危機が迫っていたのかもしれませんが、私の脳内では、とっても気持ちの良い時間であったのです。妻が近くにいたから、この世に引き戻してくれたのかもしれません。

その後は、皆さんご存知のように、単独行動を主として日本全国を回っておりますが、気を失ったことはなく過ごしております。

 

2024年8月17日 (土)

1284.実録・腎臓移植・part2

私が腎臓移植を受けてから、この11月で35年が経過することになります。

33歳までが自前のポンコツ腎臓でしたが、その後は実母の腎臓を使ってそれ以上の年月を過ごして来たことになります。満33年が経過した一昨年の11.15には、感慨深いものが人知れずこみあげてきたものです。

大正14年生まれの腎臓で、平成・令和の世を生き抜いてきたのです。まずは今年99歳となった実母に、丈夫な腎臓をいただいたことに感謝いたします。そして、未だに週5回でカーブスに通って健康に暮らしている実母には、もっと長生きをして欲しいものと切望しています。

ところで私の血液型はA型です。そしてドナーの実母はO型です。これは、確信を持って言えることですが、腎臓を貰ってからは私の性格が変わりました。元来のくよくよとした神経質な性格は無くなり、ある意味大雑把な性格になっているのです。これは腎臓移植によるものであることに間違いはありません。

ちょっと戻って、免疫抑制剤の服用について、お話ししてみます。

腎臓移植手術によって、私の体内に収まった母親の腎臓なのですが、人体には自分のものではない物を‘異物’として排除すべく攻撃する免疫作用があります。たとえ肉親の腎臓であっても自分のものではないので‘異物’です。一卵性の双子からの移植以外は、残念ながら‘異物’として免疫攻撃が実行されてしまうのです。

そのため免疫抑制剤を服用するのです。移植直後では、色んな種類の免疫抑制剤を服用して、貰った大切な腎臓を守ります。その後は、次第に少なくなっていくのですが、これは貰った腎臓が自分の身体の中で生着したということかと思います。植物の接ぎ木と同様なのかと考えています。

ですから移植直後は免疫抑制剤の副作用が色々と出てきました。まずはムーンフェイスです。顔が満月のように丸くなるのです。そして私の場合は、もち肌だった皮膚に吹き出物がたくさん出てきました。今はその吹き出物の痕跡で顔中ブツブツのブサメンとなっています。でも、これは、クオリティオブライフの代償であるので、まあ仕方のないことです。幸いにも既婚者ですので、顔はついていれば良しとしましょう。

あとは、免疫抑制剤を服用しているため、インフルエンザとか新型コロナなどに罹患すると、回復が遅くなります。ですから、他所様以上にかからないように気を使います。幸いにも新型コロナには未だ罹患したことがありませんが、インフルエンザには1度かかったことがあります。

娘が中学生の時ですから25年ぐらい前のことです。娘からの貰い物でした。娘は一日休んだだけで回復しましたが、私は1週間入院しました。点滴による治療で時間をかけて治していったのです。

このように、打たれ弱いということを実感しておりますが、その後25年は股関節治療以外は入院しておりませんので、普段は健常者並みに丈夫であると自らを誤解して過ごしております。

 

2024年8月13日 (火)

1283.実録・腎臓移植・part1

前の記事の続きです。

慢性腎炎から慢性腎不全に至った私が生き残っていくためには、透析治療しかありません。基本的に透析治療に入れば、週3回、一回に4時間かけて汚れた血液を濾過して、それを身体に戻すという透析治療を繰り返して生きながらえることになります。

腎臓病の状態を測る指標として、血中のクレアチニンの値があります。正常値は男性が0.6~1.2、女性が0.4~1.0(mg/dl)ですが、腎臓が悪いとその値がどんどん大きくなっていきます。このクレアチニン値とは、分かり易く言えば血液中のゴミの量を測っているものです。

この血中クレアチニン値が8となれば、尿毒症であり、放置すれば死を待つのみですが、その前の7ぐらいになっていくと生きながらえるための透析治療を行ないます。7ぐらいの値で透析治療を済ますと5ぐらいになるようです。

透析治療というのは、24時間365日やっていれば正常値の1.2に限りなく近づくのでしょうが、これでは常に管に繋がれているばかりですので、週3回一回4時間の透析治療をして、それ以外の時間はシャバに出て活動することができるというもので、患者本人のクオリティオブライフを高めるのですが、その実態は苦しいながらも何とか細々と生活ができるというものです。

この透析治療の上を行くのが腎臓移植です。私の場合は、これを強く望みました。そうは言っても、腎臓の提供者(ドナー)が必要なので、そう簡単に腎臓移植が出来るものではありません。

私のドナーは実母です。33歳直前で移植手術をしたのですが、その時の実母の年齢は65歳でした。私は今67歳なのですが、今の年齢になって考えると、実母はよく提供してくれたものだと頭が下がる思いです。

当時の私は妻と二人の幼子がいました。我が子を無事に成人させるためには、この起死回生とも言われる腎臓移植をするしかないと、病身ながら腎臓移植について勉強をしていました。本を読んで勉強するのは勿論、腎臓移植者の集いにも参加して、その方々の意見を聞いてみたりしました。

その結果、透析治療を始めて4ヶ月後に腎臓移植手術をしたのです。1989(平成元年)11.15でした。二週間後が満33歳の誕生日でした。

これにより私のクレアチニン値は1.4に改善しました。34年経った今でも1.4から1.6ぐらいです。正常値の男性下限1.2よりも若干劣るだけの値です。

腎臓移植をすれば手放しで健常者となるわけではありません。貰った腎臓をダメにしないために、免疫抑制剤などをサボらずに飲み続ける必要があるし、その免疫抑制剤などの副作用にも対処しなくてはならないなど、未だに腎臓病患者であることは間違いないのですが、郵便局めぐりのために何泊もして趣味に励むなど、クオリティオブライフは格段に上がっていることも間違いのないことであります。

2024年8月 9日 (金)

1282.実録・慢性腎臓病

主要テーマである郵便局めぐりは家庭の事情もあり、9月までありません。そこで実録シリーズとして、自分の病気のことを晒すことにいたします。

今回は結構シビアであり、かつ赤裸々な告白です。

50代になってから顕在化した変形性股関節症については、NO.1273NO.1274で告白しておりますが、私・稲生はもっと本質的な疾患を持っているのです。

それは腎臓病です。おそらく中学生の時に急性腎臓病になっていたようです。扁桃腺を腫らしては熱を出しておりました。これについて、休んで睡眠をとれば回復することを繰り返していたのですが、しっかりとした治療を受けずにいたのが間違いの元だったようです。

高校に入ってからは慢性化してしまい慢性腎臓病となっておりました。でも、専門病院に行くことは無く、近所の町医者で薬を処方されて、それを飲んで良しにしていました。相変わらず、扁桃腺を腫らし熱を出してぐったりすることを繰り返していましたが、休むのは一日か二日で長患いにはならなかったので、それを甘く見ていたのです。

大学入試を何とか現役で受かって、学生生活を送ったのですが、ここでも扁桃腺を腫らして熱を出してぐったりすることを繰り返しておりましたが、病気持ちながら若さが優先して、それなりに楽しい学生生活を送っておりました。

今ならまず不採用となることでしょうが、慢性腎炎を申告したうえで地元の鉄道会社に就職できましたが、病気の方は相変わらずで慢性腎臓病は次第に進行していき慢性腎炎から慢性腎不全となっていきました。

28歳ぐらいの時でしたでしょうか、突然血尿が出てしまい、本格的な病院にかかることになりました。地元の浜松医科大学付属病院(正式名称:浜松医科大学医学部附属病院、通称:医大病院)を受診しました。これが、私と医大病院の長い付き合いの‘はじめの一歩’でありました。

腎臓内科にかかり、しばらく通院治療をしていましたが、そのうちに腎臓内に腫瘍のようなものがあるようだが、外科的手術をして‘もの’をとってみないと悪性か良性か判らないとなり、泌尿器科に転科して手術をしました。幼少期に、股関節脱臼による手術もあったのですが、これは本人の記憶にない中での手術でしたので、大人になってからは初の手術でありました。

たしか29歳の時でした。6時間に及ぶ長い手術でしたが、結果は良性の嚢胞(シスト)であったということで、その部分を削っただけで終わった手術でした。

その後は、経過観察ということで推移しておりましたが、慢性腎炎そして慢性腎不全は、ここで留まってくれる病気ではありません。病気は進行してどんどん悪化していきました。頭痛となるのは毎度のことで、扁桃腺は腫れるは、熱は出るは、で明らかに病気と闘っている状態になりました。

33歳で起死回生の手術をするのですが、これ以降現在に至るまでのお話しは、次のエントリーで展開していくことにいたします。

 

2024年7月 9日 (火)

1274.実録・変形性股関節症-その2-

続きです。この手術というのは、人工関節置換術のことです。

変形性股関節症では、上の骨と下の骨(骨盤側)の間にある軟骨がすり減って痛みを生じるもので、移動をするために歩くと痛むため、まさに‘歩きたくない’状態となっており、それを脱するための起死回生の手術です。

股関節周りの上の骨も下の骨も切り取ってしまい、チタン製の人工股関節に取り換えるもので、私が手術した15年ほど前でも月に3・4件はある、まあまあポピュラーな手術でした

現在では、もっとポピュラーになっているかもしれません。千原ジュニア・前川清・舛添要一などの有名人も施術済みのようです。

さて、手術後はどうなるのか?といえば、まずは痛みはゼロとなります。手術前には関節の軟骨がすり減って痛くて仕方がないところを、神経の無い人工物にしたのですから当然です。痛くも痒くもないのです。

その前に、リハビリが必要ですが、50代前半で受けた私の場合は、それほど大変ではありませんでした。歩くと痛くてたまらない状態を脱して、歩いても何しても不快であることが無くなったのですから。

それでも、健常者と比べると歩行に慎重になっており、駅の階段などでは必ず手すりにつかまります。躓いたり転んだりして、せっかく施術した人工股関節をダメにしてはいけないからです。歩行速度もゆっくりです。現在の速度は、健常者の8掛けくらいといったところでしょうか。

杖を突いて歩くと、だいぶカバーされます。私の場合、1本目の右足を手術しても左足がやや痛むため、それをカバーするために局メグ時には杖を使いました。ちょうど東京23区内や大阪市内などで徒歩にて局メグをした時期だったのですが、局メグ優先ということで、杖を付いて実施しました。一日20,000歩ぐらいになった日もありましたが、翌日に足が痛むとかは無くて、いわば順調でした。

今はほとんど杖を使っていません。使うのは、区役所で諸手続きをする際に、カモフラージュ的に使うぐらいです。一応、マイカーの助手席側に杖を備えてあります。

そもそも、どうして変形性股関節症になったのかと言えば、幼少期に股関節脱臼をしてしまっていたからのようです。今は乳児期のまだ歩行する前に股関節検査をするのですが、私の頃はそれが無い頃で、歩行し始めてから歩き方が少しおかしいと気が付き、地元の整形外科で処置をしたとのことです。

ギブスを付けていた時期があったことは、かすかな記憶があります。それで完治して通常の歩行になったのですが、歩行する前に脱臼を直していなくて歩行してからとなってしまったため、それが健全な股関節形成の妨げになったのかと、私は考えております。

私は男ばかり3人兄弟の三番目、すなわち三男でしたので、両親も子育てに油断があったのでしょう。今は決して両親を攻めることはしませんが、いい加減な親だったと嘆く時もありました。

今が良ければすべて良し。ということで、現在はそれなりにクオリティオブライフを送ることができております。

2024年7月 5日 (金)

1273.実録・変形性股関節症-その1-

稲生のつぶやき(ブログ)の主要テーマである郵便局めぐりの報告は、しばらくお休みです。訪問予定がないからです。それでも、7月第3週には福井と兵庫の‘落ち穂拾い’を計画しております。それまでの期間を利用して、実録シリーズを盛り込んでいこうかと思います。

そもそもブログ(blog)とは、web上の日記と言って良いと思います。ですから、自分の日記を晒してみるのも問題がないものと考えております。

なにしろNO.1262で告白しているように、カラータイマーが発動しており、いつ命が尽きてしまうかもしれないのですから、命のあるうちに話しておきたいことは言っておこうという心境になってきております。

今後、ボチボチと実録シリーズとして、自分の病気のことその他を晒していく覚悟ができてきました。

今回は、表題のとおりで自己の変形性股関節症についてです。さらっと、話してみたいと思います。‘ひざ’ではないですよ、‘また’の方です。

変形性股関節症とは、概要はWikipediaで把握していただければよろしいのですが、股の部分にある「ちょうつがい」に異常があり、歩く度に痛みがあり、生活に支障がある状態になった状態のことを言います。

私が最初に発症したのは20代後半でした。車のクラッチを切る度に痛みが生じたのがきっかけです。この後、診断を受けたところ、変形性股関節症と一発で診断されました。腰の部分のレントゲン写真を撮れば、容易に診断がつくのです。

股関節の庇(ひさし)の部分が小さく、下の骨盤部の臼蓋との接点がしっかり噛み合わないようでした。

この時の診断では、20代・30代では周囲の筋肉によりカバーできているが、40代以降になると痛みが常に生じるとのことでしたが、自分の場合は40代後半でしたか、そのとおりになったのでした。

H15(2003)8.20に東京で局めぐりをしたときに、局メグの最後の方では地下鉄から階段で登るのがとても厳しかったこともありました。46歳でした。その2年後のH17(2005)12.1に名古屋の街中の局めぐりをした帰りには、足が痛くて高齢者にも追い抜かれてしまい、何とか家にたどり着いたことがありました。49歳の時です。

必要以上に歩くと痛みが生じるので、歩きたくないのです。車はクラッチを切らないオートマ車の時代となっており、こっちは問題なく過ごせるため、日常生活と仕事は‘だましだまし’行ってきましたが、さすがにこのままでは仕事に差し支えがあるとのことで、手術に踏み切ったのはH20(2008)2月の時で51歳でした。

実は、これが1本目です。先に右足を手術しました。足は2本あるのでもう一つの足も悪化しており、2本目はH23(2011)1月でした。

長くなりました。その2に続きます。

2024年5月26日 (日)

1262.実録・ウルトラマンのカラータイマー

司馬遼太郎(72)・藤田まこと(88)・米倉斉加年(81)・松本ちえこ(61)、そして2023年では笑福亭笑瓶(66)、もんたよしのり(72)。(括弧内は没年)

これらの有名人は大動脈瘤破裂で亡くなった方々です。他にも、多くの著名人や一般人が大動脈瘤破裂により命を奪われております。今回のタイトルは、何だかふざけたものですが、実は真面目なお話しで、自身の赤裸々告白であります。

私・稲生も大動脈瘤を持っているのです。これは文字通り大動脈に瘤(こぶ)があるということで、現在の直径は43㍉から45㍉です。

この大動脈瘤は、破裂すれば大変なことになるどころか、早晩死んでしまうものですが、残念なことに薬などでの治療で縮小することが無いということです。これが、表題につながるのです。私の身体にはカラータイマーが仕掛けられているのです。

Photo_20240702011501 ネットで調べると直径50㍉を超えると破裂の危険が大きくなるらしいのです。放置して破裂するのを待つのでは、これは危険なことですが、不思議なことに、このコブを持っていることによる自覚症状は全くないのです。

ですが、私はCT検査によって現在の状態を計測しており、この4月に測った結果が前述の43㍉から45㍉ということで、これはヤバイと判断し、かかりつけの浜松医大病院泌尿器科から紹介状を書いて貰い、同じ医大病院の心臓血管外科を5月上旬に受診しました。

検査結果が判ったGW中あたりでの自分の考えでは、6月には手術を受けて破裂する危険をなくしていこうと覚悟を決め、前述の心臓血管外科外来受診に臨みましたが、判定としては、まだ手術する必要はなく経過観察に留まるということでした。なんだか拍子抜けしました。

患者が手術を望んでも、やってくれないのです。まあ、執行猶予ということでしょうか。

次の心臓血管外科でのCT検査と受診は、来年の4月です。それまでは破裂しないと保証してくれたということですが、気持ちの良いものではありません。腰や胸に痛みが出たりしたら、大動脈解離の疑いが出たということで、緊急手術をしてくれそうなのですが、私の場合は今のところ、とにかく無症状なのです。

仕方がないので、これまでどおり通常の生活を送ることにして、6月には北海道・道東大遠征を実施するようにしました。さすがに手配をしたのは5月中旬でした。

ウルトラマンのカラータイマーを持っているという認識なのですが、まだ青色なのか、はたまた赤色になっているのか、それが点滅しているのか、警告音が発せられているのか、本人には皆目判らないところは困ったものです。

稲生のつぶやき(ブログ)の読者の皆さんにとっては、少なくともこのブログが続いていれば稲生は生きているし、具合が悪くなるか、破裂してすでに死亡していれば、ブログの更新は止まったままですので、そういった認識でいてください。